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	<title>インターネット歴史事典 &#187; 大友宗麟</title>
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	<description>日本や世界の歴史上の人物や出来事をご紹介しております。</description>
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		<title>大友宗麟</title>
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		<pubDate>Tue, 01 Sep 2009 13:10:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大友軍団]]></category>
		<category><![CDATA[キリシタン大名]]></category>
		<category><![CDATA[大友宗麟]]></category>
		<category><![CDATA[守護大名]]></category>

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		<description><![CDATA[キリシタン大名として有名な大友宗麟（大友義鎮　おおともよししげ）は、鎌倉時代から続く名門大友氏の21代目の当主です。
大友宗麟が生まれた時代
大友氏は鎌倉時代には九州御家人の中の有力者として、室町時代には守護大名として権 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>キリシタン大名として有名な大友宗麟（大友義鎮　おおともよししげ）は、鎌倉時代から続く名門大友氏の21代目の当主です。</p>
<p><H3>大友宗麟が生まれた時代</H3></p>
<p>大友氏は鎌倉時代には九州御家人の中の有力者として、室町時代には守護大名として権勢をふるいました。<br />
<P><br />
守護大名としての大友氏は、少弐氏、島津氏とともに九州を３分する大勢力でしたが、山口の大内氏が北九州に進出するのに対抗していました。<br />
<P><br />
大友宗麟の生母は大内義興の娘と言われていますが、異説もあるようです。</p>
<p><H3>二階崩れの変</H3></p>
<p>父の大友義鑑は異母弟の塩市丸を寵愛し、大友宗麟を嫌い廃嫡を画策します。<br />
<P><br />
天文19年2月に父の大友義鑑は大友宗麟を湯治に行かせている間に宗麟一派を粛清しようとしますが、逆に宗麟派の重臣たちは決起し、2月10日に塩市丸とその生母を殺害し、その時の傷がもとで大友義鑑も12日は死去します（二階崩れの変）。これで大友宗麟は実権を握って当主となり、反対派を粛清しました。<br />
<P><br />
天文20年に大内義隆が陶晴賢の謀反で自害すると、大友宗麟は陶晴賢を助け、弟の大友晴英を大内家の新しい当主にします。これが大内義長ですが、これにより大友家は長年の念願であった貿易港博多を手中に収めます。<br />
<P><br />
この頃が大友宗麟の全盛期で、天文23年には肥後の名門　菊池氏を滅亡に追い込みます。</p>
<p><H3>毛利氏の台頭</H3></p>
<p>しかし、毛利元就が勢力を増して、大内義長が滅ぶと、毛利氏は北九州に進出してきます。<br />
大友宗麟は毛利派の秋月氏、筑紫氏を討ち、室町幕府に運動して、豊前・筑前の守護職と九州探題の地位を得るなど、軍事・外交の両面で手腕を発揮しました。<br />
この頃、毛利氏は山陰の尼子氏と対立しており、大友氏の領国は最大になります。<br />
<P><br />
ところが、毛利氏が尼子氏を打ち破った後は、毛利氏が再び北部九州の豪族に接近をはかります。<br />
この時は重臣の高橋鑑種が反旗を翻すなど、大友氏は当初劣勢でしたが、立花道雪などの活躍により、高橋鑑種の叛乱は鎮圧されました。<br />
<P><br />
大友宗麟は永禄5年にすでに出家していたのですが、この時期、毛利氏に対抗するためにキリシタン宣教師に接近し、火薬の原料である硝石の輸入などをしております。</p>
<p><H3>今山合戦</H3></p>
<p>大友宗麟は少弐氏を滅ぼして勢いに乗る龍造寺隆信を討とうとしますが、連携している毛利氏にけん制されます。<br />
それでも大友宗麟は大軍を弟の大友親貞に預けて龍造寺の居城　水ケ江城を包囲しますが、龍造寺軍の夜討ちに会い大敗し、大友親貞は討ち死にしてしまいます。<br />
この敗戦以降、大友軍は北の毛利氏、西の龍造寺氏、南の島津氏と３方面作戦を強いられることになり、徐々に力を落としていきます。<br />
<P><br />
天正5年には家臣たちの不満を和らげる狙いもあって、大友宗麟は家督を長男の大友義統に譲り、丹生島城へ隠居します。しかし、大友宗麟が完全に治世をコントロールしていたようです。</p>
<p><H3>耳川の戦い</H3></p>
<p>この機を狙って島津義久が日向へ侵攻しました。<br />
そこで、大友宗麟は大軍を率いて日向に向かいますが、耳川で大敗し、重臣の多くを失います。<br />
<P><br />
耳川での敗戦の原因に、直前に大友宗麟がキリシタンの洗礼を受けたことに対する家臣の反発をあげる人もいます。しかし、大友軍は山城攻略を得意としていましたが、今山合戦にしても耳川の戦いにしても、平地での大軍同士の合戦は元来、苦手のようです。<br />
<P><br />
これは、いつも３方面作戦を強いられているので、大軍での行動に慣れていないこと、大友宗麟自身がそれなりの軍略家なので、優秀な軍師をつけていなかった、鉄砲や大砲などに力を注いでいるものの、この時期は、それを完全に使いこなすには至っていなかったことがあげられます。<br />
<P><br />
大友宗麟は日向の国で神社仏閣を破壊し、キリシタンの王国にするというようなことを宣教師に言っておりますが、神社仏閣の破壊は新しい領地での大友家の支配力強化のためであり、家臣団に特にキリシタン改宗を命じていないことからも、ほんとうの信心というよりは、ヨーロッパ勢力へ接近して、貿易と軍事の両面で利益を得ることが、大友宗麟の本来の目的と思われます。<br />
<P><br />
耳川の戦い以降、筑後の諸将は龍造寺隆信に従うようになりますが、天正12年には沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち取られてしまいます。<br />
この機に、大友軍は筑後に侵攻しますが、その無理がたたってか、大友宗麟を支えた立花道雪が病死してしまいます。</p>
<p><H3>島津の北上と豊臣秀吉の九州征伐</H3></p>
<p>その後、島津軍は北上を続けて大友領を蹂躙していきます。<br />
大友宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請し、天正14年には、その要請にこたえて長宗我部元親らが九州に上陸しますが、戸次川の戦いで島津軍に破れ、豊後国府を占領されてしまいます。<br />
そこで、大友宗麟は国崩しと言われる大砲とともに丹生島城に籠城します。<br />
<P><br />
翌年、豊臣秀吉は20万以上の大軍で九州に侵攻し、各地で島津軍を打ち破ります。<br />
これにより大友家は滅亡を免れますが、大友宗麟は島津氏の降伏の直前に病死しました。<br />
<P><br />
大友宗麟の長男の大友義統は秀吉から豊後１国を安堵されますが、凡庸で、キリシタン禁令にもかかわらずキリシタンに改宗したり、朝鮮征伐でもミスを犯し、結局、改易となり、大名としての大友家は断絶しました。</p>
<p><H3>大友義鎮（宗麟）の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>享禄3年(1530)　大友家第20代当主　大友義鑑の嫡男として生まれる。<br />
<LI>天文19年(1550)　二階崩れの変。大友義鑑死去。大友義鎮、大友家第21代当主となる。<br />
<LI>天文20年(1551)　陶晴賢の乱で大内義隆　自害。<br />
<LI>天文22年(1553)　家臣の一萬田鑑相　謀反。<br />
<LI>天文23年(1554)　菊池氏を滅ぼす。<br />
<LI>弘治元年(1555)　陶晴賢　厳島の戦いで毛利元就に破れ自害。<br />
<LI>弘治2年(1556)   家臣の小原鑑元 謀反。<br />
<LI>弘治3年(1557)　毛利元就　大内義長を滅ぼす。大友宗麟、秋月氏、筑紫氏を攻略。<br />
<LI>永禄2年(1559)　大友宗麟　九州探題に補せられる。<br />
<LI>永禄5年(1562)  出家し休庵宗麟と号す。<br />
<LI>永禄10年(1567)　重臣の高橋鑑種　叛乱。<br />
<LI>元亀元年(1570)　今山の戦いで大友軍、龍造寺隆信に大敗し、大友親貞　討ち死に。<br />
<LI>天正5年(1577)　家督を大友義統に譲り、丹生島城へ隠居。<br />
<LI>天正6年(1578)　耳川の戦いで島津軍に大敗。<br />
<LI>天正14年(1586)　戸次川の戦いで島津軍に敗退、島津軍　豊後国府を占領。<br />
<LI>天正15年(1587)　豊臣秀吉の九州征伐。大友宗麟　病死。<br />
<LI><br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
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</td>
<td>
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「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。 </p>
</td>
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