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尼子晴久

尼子氏は宇多源氏の佐々木高氏(道誉)の孫の高久が、近江国甲良荘尼子郷に居住し、名字を尼子と称したのに始まると言われています。高久の次男の持久のときに、宗家の京極氏(佐々木氏)に従って出雲に下向し、出雲守護代となります。

尼子氏は代々出雲と隠岐の守護代を世襲し、周辺の国人を従えていきます。

尼子晴久(詮久)の祖父の尼子経久のときに一時、居城の月山富田城を失いますが、その後、月山富田城を奪還し、守護の京極氏の勢力を排除して、尼子氏は山陰の有力戦国大名となりました。

尼子晴久は尼子経久の嫡男 政久の次男でしたが、彼が生まれた時にはすでに長男は他界しており、彼が4歳の時に父の尼子政久も討死したために、若くして尼子家の当主となります。

下記に示す年賦に示されているように尼子晴久は毎年のように各地に出陣し、積極的な領土拡張策をとりました。尼子氏の軍事力を恐れた周辺の国人領主たちは次々に尼子氏の傘下に入りました。

毛利氏の居城 吉田郡山城攻めで大内軍に大敗し、一時、勢力が大きく後退しますが、月山富田城に攻めてきた大内義隆を撃破し、勢力を回復しました。

天文21年には山陰山陽8ヶ国の守護を任じられるほど、その勢力は拡大し、最大版図は出雲・隠岐・伯耆・美作・備前西部・備中北部・備後北部・因幡西部・石見東部におよんでおり、大内氏、毛利氏と支配を争った石見銀山も、かなりの期間、尼子氏の支配下にありました。

尼子氏は最終的には中国地方の支配者になれなかったことや、新宮党の粛清など、尼子晴久は毛利元就と比較して、それほど高く評価されてはいませんが、その戦略眼や軍事作戦遂行能力、家臣を把握するカリスマ性や外交手腕のどれをとっても、超一級の戦国大名と言えるでしょう。

特に、いち早く鉱山経営を重視し、日本海の海運を利用した交易ルートを確立するなど、「毛利氏に滅ぼされた名門守護 尼子氏」のイメージとはほど遠い、先進的な近世的領国経営の手腕は高く評価されるべきでしょう。

しかしながら、毛利元就、豊臣秀吉、徳川家康などに比べて尼子晴久は若くして急死したために、尼子氏の戦国大名化は道半ばで頓挫します。

歴史に「たら」は禁物ですが、あとを継いだ尼子義久がもう少し尼子晴久流の積極的な軍事行動、周辺国人領主の調略、尼子家内部での中央集権化などを理解していたならば、中国地方の覇者は尼子氏であった可能性が高いと思われます。

尼子晴久の年譜

  • 永正11年(1514) 尼子経久の嫡男 政久の次男として生まれる
  • 永正15年(1518) 父の尼子政久、出雲 阿用城攻めで討ち死に
  • 享禄4年(1531) 備後へ出陣
  • 享禄5年(1532) 美作、備前へ出陣
  • 天文6年(1537) 尼子経久の隠居により家督相続。尼子経久の三男興久を粛清
  • 天文7年(1538) 石見銀山を攻略。播磨で美作、備前、播磨3カ国の守護 赤松晴政に大勝
  • 天文8年(1539) 播磨 龍野城を攻略
  • 天文9年(1540) 吉田郡山城を攻撃するも、大内毛利連合軍に大敗し、石見、安芸方面の勢力後退
  • 天文10年(1541) 尼子経久 逝去
  • 天文11年(1542) 大内義隆 月山富田城に来襲するも撃退
  • 天文12年(1543) 石見銀山を奪還
  • 天文13年(1544) 備後で児玉就忠、福原貞俊を撃退
  • 天文17年(1548) 美作高田城主の三浦氏を配下に加える
  • 天文20年(1551) 備前守護代 浦上政宗と同盟し、備前に出陣
  • 天文21年(1552) 大友義隆の死により山陰山陽8ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護及び幕府相伴衆に任命される(すべてを実効支配していたわけではない)
  • 天文22年(1553) 美作勝山で浦上宗景、後藤勝基を撃破。備後国高へ出陣し陶晴賢と対峙
  • 天文23年(1554) 新宮党の尼子誠久親子を粛清
  • 弘治元年(1555) 陶晴賢 厳島で毛利元就に敗れ自害
  • 弘治2年(1556) 石見忍原で毛利元就を撃破、石見銀山を再奪還
  • 永禄2年(1559) 尼子方の石見温湯城主 小笠原長雄が毛利方に降服。尼子方の本城常光が撤退中の毛利勢を撃退
  • 永禄3年(1560) 尼子晴久 急死。享年47  
 

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