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真田幸隆

真田幸隆は信濃の国の真田庄の地侍で、信濃の国の小県(ちいさがた)郡の豪族である海野棟綱の子という説と、彼の娘婿の真田頼昌の子とも言われていますが、確証はありません。

天文10年に武田信虎(信玄の父親)や諏訪頼重、村上義清の連合軍が視なの小県郡へ侵攻し、5月23日の海野平合戦で海野一族は敗北し、上野(こうずけ)へ亡命しました。

このときに、真田幸隆も上野へ逃れています。

その直後、武田信虎は武田晴信(信玄)に追放され、晴信は翌年、諏訪頼重を滅ぼしています。

真田幸隆はこの政変後、数年で武田晴信配下になって徐々に旧領を取り戻していったようです。

真田幸隆は信濃先方衆の一員として、もっぱら村上義清側の地侍の調略に奔走していました。

この頃の居城は佐久の岩尾城と言われています。

彼の調略で砥石城は1日で攻略され、2年後には村上義清の居城である葛尾城も落城します。

この功績により真田幸隆は海野一族の旧領をほぼ回復することができたようです。

しかし、それは越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)との最前線を守るということを意味していました。

この頃、真田幸隆は真田本城を居城とし、砥石城の城番も兼ねていました。

武田氏との同盟関係にある北条氏からの要請で、関東方面にも出陣していたようです。

信濃北部にも勢力を拡大し、弘治2年には埴科郡の東天飾城を攻略し、有名な第4次の川中島の戦いでは、妻女山の夜襲部隊に加わっています。

その後、上野方面へ勢力範囲を広げ、上野の岩櫃城、獄山城、白井城を次々と攻略していきます。

この頃、上野の箕輪城の城代であったとも言われており、武田信玄の信任の深さがうかがわれます。

真田幸隆は高齢のため武田信玄の駿河侵攻などには参加せず、家督を信綱に譲って、天正2年5月19日に砥石城で病死したと言われています。

享年62。

真田幸隆は、信濃の真田庄の地侍にすぎなかった真田家を、名門甲斐武田家の中でも譜代家臣なみの待遇へと引き上げた功労者でした。

ただし、大部隊を率いるよりは調略などを用いて、山城をひとつひとち落としていく地道な武将でした。

これが息子の真田昌幸や孫の真田幸村が活躍する下地になったのでしょう。

真田幸隆の年賦



  • 天文10年(1541) 海野平合戦、武田信虎追放
  • 天文11年(1542) 諏訪頼重 滅亡
  • 天文17年(1548) 上田原の戦いで武田晴信、村上義清に敗北
  • 天文19年(1550) 砥石崩れ(武田氏、村上氏に敗北)
  • 天文20年(1551) 武田氏、砥石城を攻略
  • 天文22年(1553) 葛尾城落城で村上義清、越後に逃れる
  • 弘治2年(1556)  埴科郡の東天飾城を攻略
  • 永禄4年(1561)  第4次川中島の戦い
  • 永禄6年(1563)  上野の岩櫃城を攻略
  • 永禄8年(1565)  上野の獄山城を攻略
  • 永禄10年(1567) 上野の白井城を攻略、家督を譲る
  • 天正2年(1574)  砥石城で病死


 

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