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真田信幸

真田信幸(のちに真田信之と改名)は、永禄9年に武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)の長男として生まれます。

生母は有名な山手殿ですね。

父親の真田昌幸は真田家の三男だったので、武田家の親戚の武藤家の養子になっていました。

信幸が生まれたのはその頃ですね。

その後、長篠の戦いで昌幸の2人の兄が討ち死にしたので、父は真田家を継ぎます。

真田信幸は子供の頃は武田家の人質として過ごしたようですが、天正7年に元服しています。

しかし、天正10年3月に織田に攻められて武田家が滅亡すると、信幸たちは昌幸がいる上田に逃走しました。

この天正10年は大変な年で、6月には本能寺の変が起こり、上野の国から逃走する滝川一益を助けたりしています。

また、この年、信幸は上杉景勝へのけん制として、たびたび川中島付近に出陣しています。

真田家は結局、徳川家康に従い、北条が制圧した沼田城を再度、奪還します。

再度と書いたのは、もともと北条方だった沼田城を真田昌幸は奪取したのですが、武田家滅亡時に織田家に没収されて滝川一益が守っていました。

それを北条氏直が破って、北条方の城になっていたわけです。

このとき、真田信幸は5000の兵が守る手子丸城を1日で奪還したと伝えられています。

その後、真田家は沼田城の去就をめぐって徳川家康と対立し、天正13年には徳川軍が大軍を擁して真田領に攻め込んできます(第1次上田合戦)。

このとき真田信幸は砥石城に入りますが、わずか300の兵しかいなかったと言われています。

しかし、信幸は巧みな戦略で徳川方を翻弄し、勝利に貢献しました。

この上田合戦の結果、豊臣秀吉の仲裁によって沼田城は真田領となりますが、これが北条氏の反発を買い、北条方は真田方に対して軍事行動を起こします。

豊臣秀吉はこれを好機ととらえ、北条氏討伐で全国の諸大名に命じます。

これが、いわゆる小田原征伐ですね。

信幸はこのときも松井田城攻めで功績があり、その結果、沼田城主になります。

慶長3年に豊臣秀吉が病死すると、慶長5年には石田三成は上杉景勝と結んで徳川家康に対して挙兵します。

真田信幸は徳川家の重臣である本多忠勝の娘を妻にしている関係から徳川方(東軍)につき、父の真田昌幸と次男の真田信繁は西軍につきます。

徳川秀忠は大軍を率いて中仙道を西に向かい、途中、真田昌幸の守る上田城を攻撃します。

これが第2次上田合戦ですが、徳川秀忠に同行した信幸は弟の信繁が守る砥石城の攻略を任されますが、開城を要請し、信繁も開城に応じて上田城へ退去しています。

上田城で完敗した徳川秀忠軍は西へ向かいますが関が原の戦いには間に合いませんでした。

しかし、徳川家康は真田信幸の能力を高く買い、旧真田領にさらに3万石を加増され、信幸は沼田城を居城とする95,000石の大大名となります。

このときに西軍についた昌之との決別を表すために信之に改名したと伝えられています。

もっとも、信之は昌幸と信繁の助命を嘆願し、認められていますね。

真田信繁(幸村)が活躍した大坂の陣には病気のため参戦していませんが、長男と次男が代理で出陣しています。

大坂の陣のあと、真田家はさらに加増されて松代13万石となります。

信之は明暦元年に次男に家督を譲って隠居しますが、万治元年に次男の信政もなくなったために、幕府や親類の大名を巻き込んだ後継者争いが起きます。

このときは信之が一時、復帰し藩政を執り、信政の6男の幸道を松代藩第3代藩主に、長男 信吉の次男の信利に沼田領を与えて沼田藩を起こさせます。

この騒動が決着した直後、真田信之は大往生をとげました。

その後、沼田藩(3万石)は改易となりますが、松代藩(10万石)は幕末まで存続し、藩主が老中になったり、佐久間象山を登用したりしています。


真田信幸の年譜



  • 永禄9年(1566)  武藤喜兵衛(のちの真田昌幸)の長男として生まれる
  • 天正3年(1575)  真田昌幸の二人の兄が長篠の戦いで討ち死に
  • 天正7年(1579)  元服
  • 天正10年(1582) 織田徳川連合軍、甲斐へ侵攻、本能寺の変で織田信長 死去
  • 天正12年(1584)  小牧長久手の戦い
  • 天正13年(1585)  第1次上田合戦
  • 天正18年(1590)  小田原征伐
  • 慶長3年(1598)   豊臣秀吉 死去
  • 慶長5年(1600)   第2次上田合戦、関が原の戦い
  • 慶長19年(1614)  大坂冬の陣
  • 慶長20年(1615)  大坂夏の陣
  • 万治元年(1658)  死去 享年93


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