インターネット戦国歴史事典

戦国大名やその家臣団について詳しく解説しています。

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真田昌幸

真田昌幸は真田幸隆の三男で、天文16年に生まれています。

天文22年に人質として甲斐の武田館に出仕し、武田晴信(信玄)の奥近習になったようです。


武藤喜兵衛 時代


その後、晴信の母方の親戚の武藤家の養子となり、武藤喜兵衛と名乗ります。

この頃の彼は騎馬15騎、足軽30人の足軽大将でした。

永禄7年には遠江の地侍の尾藤頼忠の娘(山手殿)を妻に迎えています。

彼女が真田信幸、真田信繁(真田幸村)兄弟の母親です。

彼、武藤喜兵衛は、親戚衆の一員として第4次川中島の戦いくらいから武田家の戦いに参加しており、追撃する北条氏を破った三増峠の戦いでは、使番を務めたと言われています。


真田家に復帰


しかし、元亀4年に武田信玄が病死し、彼の運命は暗転します。

天正2年に父が病死し、翌年の長篠の戦いで信綱と昌輝の二人の兄が討ち死にしたため、武田勝頼の旗本衆として生き延びた彼は、真田昌幸として真田家を継ぎます。

この頃の真田昌幸は武田勝頼の側近ではないようで、越後の上杉氏との外交交渉の蚊帳の外に置かれていたようです。

天正7年には武田勝頼から上野の沼田城の攻略を命じられ、名胡桃城や小川城を調略により手中に収めます。

翌年には沼田城を奪取しました。


天正壬午の乱


しかし、天正10年には織田徳川連合軍が甲斐に侵攻し、武田勝頼ら甲斐の武田本家は滅びます。

このとき、真田昌幸は武田勝頼を逃がすために岩櫃城へ迎え入れる準備をしていたという逸話が残っていますが、武田勝頼は小山田信茂を頼った末に裏切られたと言われています。

真田昌幸は、すぐさま織田信長に忠誠を誓ったため沼田以外の本領を安堵され、沼田城に入った滝川一益の与力になります。

ところが、3ヵ月後に本能寺の変があり、織田信長は非業の最後をとげます。

織田氏の支配体制が確立していなかった甲斐と信濃は大混乱に陥り、織田氏の武将たちは美濃方面に逃走しました。

このとき真田昌幸は生き残っていた武田の旧臣たちへ働きかけをして、主従関係を結んで家臣団に組み込み、真田家は戦国大名の末席に列することになります。

沼田城にいた滝川一益は神流川の戦いで北条氏直に破れ、敗走してきた滝川一益を真田昌幸は諏訪まで送り届けています。

この隙に真田昌幸は叔父の矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回します。

この頃、上杉景勝は北信濃に侵攻し、真田昌幸は一旦、上杉方になりますが、北条氏直も川中島に進軍します。

そこで、すぐに北条方に寝返ります。

しかし、上杉景勝は越後内での反乱のため帰国し、北条氏直も甲斐に侵攻してきた徳川家康に対するために甲斐へ向かいます。

ここで、真田昌幸は再度、徳川方に裏切り、北条方の攻撃を始めます。

北条方の攻撃を沼田城で防いだ真田昌幸でしたが、徳川家康と北条氏直の間に和睦が成立します。

この和睦の条件に、沼田城を北条氏へ譲渡することが書かれていたたけに真田昌幸は怒り、徳川家からの独立を画策します。


第1次上田合戦


翌天正11年には上田城を築城するとともに城下町を整備し、周辺豪族への支配を強めます。

徳川家康が小牧長久手の戦いで、北条氏直が佐竹宇都宮連合軍との沼尻合戦で、ともに信濃、上野方面に手が出せないのを幸いに、真田昌幸は、沼田、吾妻、小県を完全に真田領として確保しました。

天正13年には真田昌幸は次男の真田信繁(幸村)を人質に上杉景勝にまたも臣従します。

徳川家康は7000の兵を上田城に派遣しますが、真田昌幸は2000の兵で沼田城を守り抜きます(第1次上田合戦)。


豊臣時代


そして、翌年、真田昌幸は豊臣秀吉に独立した大名として臣従し、真田信繁は人質として大阪城へ移ります。

翌年、真田昌幸は豊臣秀吉の仲介で徳川家康の与力大名となります。

天正17年には豊臣秀吉が沼田問題を仲裁し、真田家は沼田領のかわりに箕輪領を代替え地として得ることになります。

しかし、北条氏の家臣が名胡桃城を奪取したことを口実に、豊臣秀吉は北条追討に乗り出すことになります。

天正18年になって真田は上杉などとともに上野に侵攻し、松井田城を攻略し、その後、南下し、忍城の攻略にも参加しています。

北条氏の降伏後、真田氏の旧領は秀吉によって安堵されましたが、沼田領は長男の真田信幸に与えられ、彼は徳川家康の与力大名となります。

上田と吾妻は真田昌幸領となり、独立した大名と認められたようです。

その後、真田昌幸は徳川家康らとともに朝鮮の役の時も渡海せず、畿内で城普請などに参加しています。


第2次上田合戦


慶長3年に豊臣秀吉が死去すると、真田家の天敵、徳川家康は天下取りのための活動を活発化させます。

これを危惧する石田三成らの秀吉側近衆は会津に移った上杉景勝と家康打倒の策を練ります。

それを知った徳川家康は三成の策に乗ったと見せかけて会津の上杉討伐に向かいます。

その留守に石田三成らは毛利氏などを語らって大坂で挙兵します。

真田昌幸は上杉討伐軍に参加していましたが、下野の犬伏で石田三成からの書状を受け取り、次男の信繁(幸村)とともに信州上田に戻ります。

一方、長男の真田信幸は正室が本多忠勝の娘であり、徳川方にとどまります。

これは真田家存続のために、父子がそれぞれ別の陣営に参加したとも言われています。

徳川家康は豊臣恩顧の大名らを中心とした部隊を率いて東海道を、三男の徳川秀忠は徳川の譜代衆を中心とする38,000の大軍を率いて中仙道を進み、美濃の国で合流して、石田三成を討つ作戦を立てます。

徳川秀忠は大軍で上田城を囲み、真田昌幸・信繁親子は砥石城を捨てて上田城で篭城します。

9月6日に攻略を開始した徳川軍ですが、真田方の奇策により惨敗を喫したと伝えられています。

9月9日には徳川軍は上田城攻略をあきらめて、小諸に撤退しています。


配流


しかし、関が原の戦いでは徳川家康が勝利し、上田領は没収されます。

当初、死罪を言い渡された真田昌幸・信繁父子でしたが、徳川方で戦った長男の真田信幸と彼の舅である本多忠勝の助命嘆願により高野山への蟄居になりました。

なお、真田信幸は本領沼田に加えて上田領、さらには3万石の加増を賜り、合計95,000石の大名となります。

真田昌幸・信繁父子は当初、高野山へ行き、その後、ふもとの九度山で蟄居します。

蟄居先での生活は困窮し、監視もあったようですが、昌幸は京や和歌山へ出かけた記録があるようです。

慶長16年6月に九度山で病死しています。

享年65。


あとがき


大大名に囲まれた小さな在地領主の常とはいえ、真田昌幸の変わり身の速さは尋常ではないですよね。

彼が仕えた主君を列挙すると下記のようになります。

武田->織田->上杉->北条->徳川->豊臣->徳川->豊臣(石田)

最後の関が原の戦いで真田昌幸は配流の憂き目に遭いますが、彼の長男の真田信幸は大坂夏の陣のあと、信濃松代13万石の大大名になっています。

この真田松代藩はなんと幕末まで続きます。

ちなみに幕末の有名人 佐久間象山は、この松代藩士でした。

そのため、松代藩は早くから薩長方として活動し、戊辰戦争時にも松代は戦火に遭わずにすんでいます。

真田昌幸の先見の明が伺えますし、彼の遺訓が幕末まで受け継がれていたのでしょうね。


真田昌幸の年譜



  • 天文16年(1547) に生まれる
  • 天文22年(1553) 武田家の人質として武田晴信の奥近習になる
  • 永禄7年(1564)  山手殿を妻に迎える
  • 永禄12年(1569) 三増峠の戦いに参加
  • 元亀3年(1572)  武田信玄の西上作戦に参加
  • 元亀4年(1573)  武田信玄、病死
  • 天正2年(1574)  父、真田幸隆 病死
  • 天正3年(1575)  二人の兄が長篠の戦いで討ち死に
  • 天正7年(1579)  武田勝頼の命令で上野の沼田城を攻撃
  • 天正8年(1580)  上野 沼田城を攻略
  • 天正10年(1582) 織田徳川連合軍、甲斐へ侵攻、本能寺の変で織田信長 死去
  • 天正11年(1583)  上田城 築城
  • 天正12年(1584)  小牧長久手の戦い
  • 天正13年(1585)  第1次上田合戦
  • 天正17年(1589)  北条氏家臣に名胡桃城を奪取される
  • 慶長3年(1598)   豊臣秀吉 死去
  • 慶長5年(1600)   第2次上田合戦、関が原の戦い
  • 慶長16年(1611)  配流先の九度山で病死


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