インターネット戦国歴史事典

戦国大名やその家臣団について詳しく解説しています。

サイトトップ > 山本勘助

山本勘助

小説「風林火山」などで有名な山本勘助ですが、甲陽軍艦にしか記述されていない謎の人物です。

甲陽軍艦以外では武田晴信から信濃の国人に当てた書状に、使者として山本菅助という人物が出てくるだけです。

そのため、以前より山本勘助は架空の人物との説が強いですね。 そもそも甲陽軍艦は史実とは異なる記述が多く、1級の歴史資料とは言えません。

甲陽軍艦の作者は高坂昌信とされますが、本当の作者はおそらく高坂昌信に近い別人であると考えられています。

以下に示します甲陽軍艦の記述では、数々の功績はあるものの、諏訪の姫を武田晴信の側室としたこと、川中島の戦い(第4次)で啄木鳥戦法を提案し、多くの武将を討ち死にさせたことなど、武田家にとって負の側面も強いものです。

高坂昌信が武田晴信の奥小姓であったことを考慮すると、武田晴信自身の大きな失策を、山本勘助という架空の人物に託することが甲陽軍艦の隠された意図ではないかと考えられます。

山本勘助が召抱えられたのが諏訪家滅亡の前年というのも話ができすぎていますね。

甲陽軍艦によると山本勘助の生まれは三河の牛窪。

東三河六騎衆の山本氏の養子で、各地を武者修行し、京流軍学を会得したとされています。

容姿は醜く、色黒で隻眼、無数の向う傷があり、足が不自由だったため、今川家への仕官を断られます。

その後、築城術などを認められて武田家家臣となり、諏訪家滅亡後は、諏訪頼重の娘を武田晴信の側室にし、諏訪領安定を画策。

天文15年の戸石崩れでは、陽動作戦を指揮し、全滅を免れます。この功績で山本勘助は足軽大将に抜擢されました。

その後、高遠城や小諸城の築城や、上田原の戦い、海津城の築城など数々の功績をあげます。

そして、有名な川中島の戦い(第4次)で啄木鳥戦法を提案するが、上杉謙信に見破られ、多くの武田の武将が討ち死にしたが、その中に山本勘助がいました。


山本勘助の年譜(甲陽軍艦の記述 内容だけでなく年号にも誤りがある)

  • 天文12年(1543) 武田家に200貫で召抱えられる。
  • 天文13年(1544) 諏訪家滅亡。頼重の娘を晴信の側室に推挙する。
  • 天文15年(1546) 戸石崩れ。武田軍の崩壊を救い足軽大将になる。
  • 天文16年(1547) 上田原の戦い。勘助の策で逆転勝利。
  • 天文22年(1553) 海津城築城
  • 永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い。勘助の啄木鳥戦法が謙信に見破られ、勘助も討ち死に。
 

武田家一覧