板垣信方

板垣氏は甲斐源氏の傍流にあたり、板垣信方は武田信虎、武田晴信(信玄)の2代にわたって仕えました。


板垣信方は武田晴信の傅役となり、
武田信虎追放劇では主導的な役割を果たし、武田晴信政権樹立後は甘利虎泰とともに「両職」として、
政治、軍事の両面で信玄を支えました。


甲陽軍艦では山本勘助を推薦したのも板垣信方ということになっています。
諏訪氏攻略後は諏訪の郡代として、信濃経営の基礎を築きました。


上田原の戦いでは緒戦の勝利に油断し、村上軍の急襲で壮絶な戦死を遂げます。


板垣信方については、晴信を助ける宿老としての側面と、自らが信濃での戦国大名化を目指す豪族としての両面があるようで、
甲陽軍艦などの軍記物では後者の立場を非難する記述が目立ちます。


しかし、後者はあくまでも晴信が凡庸であったらの話であり、
実際に武田家にとって代わろうという行動を起こしていたわけではありません。


信方の子の信憲は父の死後、諏訪城代となりますが、天文21年に武田晴信によって処刑されています。
その後、於曽光経が板垣信安となって板垣家を再興し、勝頼の時代に駿河田中城主となります。


なお、明治時代の自由民権運動家の板垣退助は信方の直系の子孫と称しておりました。
それによると信方の孫が浪人中に関が原の戦いで山内一豊軍に参加し、
後に山内家の重臣乾家の養子となりました。板垣退助はもともと乾姓でしたが、このことにより板垣姓に改姓しています。


板垣信方の年譜


  • 大永元年(1521)侵入してきた今川氏親の武将福島正成を夜襲により撃退
  • 天文四年(1535) 武田信虎と外交問題で対立。駿河侵攻を命じられる。
  • 天文10年(1541) 武田信虎追放に同調し、武田晴信を擁立
  • 天文12年(1543) 佐久の志賀城攻略
  • 天文14年(1545) 高遠城攻略
  • 天文15年(1546) 笛吹峠で上杉憲政軍を破る
  • 天文16年(1547) 村上氏に敗れる
  • 天文17年(1548) 上田原の戦いで討ち死にする



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