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戦国大名やその家臣団について詳しく解説しています。

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相良頼房

相良氏は源頼朝から人吉荘の地頭職を賜った、いわゆる下り衆で、戦国期には在地の小領主達の連合体の盟主という立場でした。

有名な相良家法度は、相良氏ではなくて在地領主たちによって起草されたものですが、このことによって相良氏は実質的には戦国大名化し、頼房の父の相良義陽の代には、大隅、芦北、八代、天草にまで勢力圏を広げました。

しかし、島津氏の攻勢の前に屈服し、相良氏は島津氏に従属することになります。

その後、父が討ち死にすると相良頼房は島津に人質に出されますが、兄の死により、12歳で相良氏の家督を相続し、人吉城主となります。

相良頼房は島津軍の中の1隊として大友領を攻撃していましたが、豊臣秀吉の九州征伐時にいち早く降服し、人吉を安堵されます。

関ヶ原の戦いのときには相良頼房は当初、西軍に属して伏見城などを攻撃していましたが、関ヶ原での西軍敗戦直後に秋月種長らと大垣城内で寝返り、石田三成の妹婿の熊谷直盛らを殺害したため、徳川家康によって本領人吉を安堵され、初代人吉藩主となります。

相良頼房は大坂夏の陣ののち、相良氏初代の長毎の名をとって、相良長毎(ながつね)と名乗るようになります。

九州の戦国大名の中で江戸時代にも本領を安堵されて生き残ったのは相良氏と島津氏、鍋島氏(龍造寺氏)、大村氏のみです。

これには、相良頼房やその家臣たちの政治情勢認識の正しさと、戦国時代を生き抜く行動力の賜物でもあるのですが、何といっても、難攻不落の人吉城と相良家法度に結集した在地領主たちの結束が怖れられたからに他なりません。

島津も豊臣も徳川も、大きな戦略の中で、人吉を無理攻めするよりも懐柔し従属させる道を選んだのでしょう。

人吉こそ日本屈指の秘境であり、僻地であるのですが、表高23000石に対して実高53000石という実態こそ、相良氏の僻地ゆえの生き残り戦略をうかがわせるものではないでしょうか。

相良頼房の年譜

  • 天正2年(1574) 相良義陽の次男として生まれる
  • 天正9年(1581) 父・義陽が戦死。島津に人質として送られる
  • 天正13年(1585) 兄・忠房が急逝。12歳で家督相続
  • 天正15年(1586) 豊臣秀吉の九州征伐に際して降服。人吉領を安堵される。
  • 慶長5年(1600) はじめ西軍に属し伏見城などを攻撃。関ヶ原の戦い直後に大垣城で内応。2万石の人吉藩初代藩主となる。
  • 寛永13年(1636) 死去。享年63
 

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