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戦国大名やその家臣団について詳しく解説しています。

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大村純忠

大村氏は藤原純友を先祖とする在地領主ですが、家臣団や親戚筋の力が強く、強力な戦国大名になれないままでした。

そこで、大村純前は実子の又八郎(後の後藤貴明)を武雄の後藤家に養子に出し、隣国の大名の有馬晴純の子を養子として貰い受けて、大村・有馬・後藤の3家連合を模索します。

この有馬晴純の息子こそ、キリシタン大名として名高い大村純忠です。

大村純忠はキリシタンの洗礼を受けると、ポルトガル人たちに当時、寒村だった長崎の港を開港し、のちに周辺の土地をイエズス会に寄進しています。

これによって大村純忠は有馬氏とポルトガル人たちの支援を得て、松浦・後藤連合軍や龍造寺軍に対抗しました。

一時、攻勢を強める龍造寺隆信に4人の息子を人質に取られた時もあったが、沖田畷の戦い後は有馬晴信のあっせんで島津に属し、豊臣秀吉の九州征伐時にはいち早く降伏し、本領を安堵されています。

養父の大村純前は婚姻関係を構築して大村氏の存続をはかりましたが、大村純忠はポルトガル人の力を借りて難局を乗り切りました。

大村純忠の死後、バテレン追放令が出されると息子の大村喜前は日蓮宗に改宗し、キリシタンを弾圧しました。 それによって、大村氏は肥前大村藩として幕末まで存続します。

九州で本領を安堵されて幕末まで存続したのは、島津氏、肥前の鍋島氏(龍造寺氏)、人吉の相良氏と大村氏のみであり、あまり知られてはいませんが、大村家代々の時代を読む処世術のすごさがわかると思います。

大村純忠の年譜

  • 天文2年(1533) 有馬晴純の子供として生まれる
  • 天文19年(1550) 大村純前の養子となる
  • 永禄6年(1563) キリシタンの洗礼を受ける
  • 永禄13年(1570) 長崎港をポルトガル人に開港
  • 元亀3年(1572) 松浦・後藤連合軍を撃退
  • 天正6年(1578) 長崎で龍造寺軍を撃退
  • 天正8年(1580) 長崎港周辺をイエズス会に寄進
  • 天正12年(1584) 沖田畷の戦いでは龍造寺軍に属するが、龍造寺敗戦後は島津に属する
  • 天正13年(1585) 豊臣秀吉の九州征伐時に降伏し、本領安堵
  • 天正15年(1587) 病死。享年55
 

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