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筑紫広門

筑紫氏は小弐氏配下の小大名で、筑後上妻郡や肥前基肄郡、養父郡の一部を領するだけでした。

小弐氏没落後は、大内、大友、島津、後には龍造寺の大大名のちょうど勢力が拮抗する地域であることをたくみに利用して、筑紫広門は戦国の世を綱渡りのように渡り歩きます。

筑紫惟門の晩年には筑紫氏は大友氏に属しており、筑紫広門も家督相続直後は大友氏の配下となります。

耳川の戦いで大友氏が敗北すると、秋月種実とともに高橋紹運の岩屋城を攻撃します。 岩屋城はついに落ちなかったのですが、7年後に筑紫広門は高橋紹運が遠征している隙に居城の宝満城を落とします。

ところが、豊臣秀吉が中央で力を持ったことを知った筑紫広門は、翌年、秋月種実と離反して、高橋紹運と和解し、娘と高橋紹運の息子との婚姻を成立されます。これは、いずれ秀吉の大軍が九州に来ることを察知した筑紫広門が、島津・龍造寺・秋月連合軍でも秀吉には勝てないと踏んで、当時、秀吉と結んでいた大友氏側に鞍替えしたものです。

当時の九州の軍事情勢は圧倒的に島津側有利で、大友氏は滅亡の危機に瀕するような状態であったのにもかかわらず、豊臣・大友連合軍側を選んだ筑紫広門の先見の明には、感服します。

しかし、島津・龍造寺・秋月連合軍の攻撃にあって息子が討ち死にすると、筑紫広門は降伏し、筑後の大善寺に幽閉されます。

このときに筑紫広門が詠んだのが下記の和歌です。

		忍ぶれば
		   いつか世に出ん
		      折やある
		        奥まで照らせ
		           山のはの月
		

その後、秀吉の大軍が九州に上陸すると筑紫広門は大善寺から逃げ出し、軍を立て直して五ケ山城を奪回します。

これにより、筑紫広門は筑後上妻郡18000石を安堵されました。

ところが、歴戦の筑紫広門も関が原の戦いで西軍についたために、筑紫家は改易となり、広門自身は剃髪して、加藤清正や細川家を頼りましたが、大名として復活することはできませんでした。

なお、息子の代に筑紫家は3000石の旗本として復活しています。

筑紫広門の年賦

  • 弘治2年(1556) 筑紫惟門の子として生まれる
  • 天正6年(1578) 耳川の戦い
  • 天正7年(1579) 高橋紹運の岩屋城を攻撃
  • 天正12年(1584) 高橋紹運の岩屋城を攻撃
  • 天正13年(1585) 高橋紹運の宝満城を落とす
  • 天正14年(1586) 娘を高橋紹運の次男・高橋統増に嫁がせる。嫡男 筑紫晴門討ち死に。筑紫広門 降伏し大善寺に幽閉される
  • 天正15年(1587) 秀吉の20万の大軍、九州上陸。筑紫広門、五ケ山城奪還
  • 慶長5年(1600) 関が原の戦い。筑紫広門改易。
  • 元和9年(1623) 筑紫広門逝去。享年68
 

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