豊臣秀吉は日本史上で最も人気の高い人ですね。
農民から天下取りになった出世物語と、明るく庶民性に満ちたそのキャラクターが人気の秘密でしょうか。
豊臣秀吉は、小牧長久手の戦いの時に織田信勝と単独講和をはかろうとするのですが、
会談場所に彼は先に行っていて、信勝が来ると秀吉は土下座して迎えます。
また、徳川家康がついに折れて大阪城に来たときも、
前夜に家康の宿所を訪ね、平身低頭して感謝の意を表したことも有名な逸話ですね。
このあたりが「人たらし」と言われた秀吉の強みでしょうか。
貧農の出身だけに、妙なプライドがいっさいないということでしょう。
しかし、1代での成り上がりゆえに、譜代の家臣がいないのが致命的でした。
そのため、秀次などの近親者を要職につけざるを得なくなります。
秀吉に古くから仕えていた山内一豊や小姓あがりの加藤清正、福島正則らを重用しますが、
秀吉亡き後は、彼らはすぐに徳川家康側につき、関が原の戦いでは近親の小早川秀秋の裏切りにより、
豊臣家滅亡への道を突き進むことになります。
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墨俣一夜城伝説の虚実を明らかにし、秀吉の出自をめぐる謎、九州に潜んだ秀頼の末裔、家康、元康すり替え説など闇に埋もれた秘史に大胆に迫る。 |
豊臣秀吉の年譜
- 天文6年 尾張中村に生まれる(1537年)
- 永禄元年 織田信長に仕える
- 永禄9年 墨俣城築城
- 天正2年 近江長浜城主
- 天正10年 本能寺の変で織田信長 自害、山崎の合戦で明智光秀を破る
- 天正11年 賎ケ岳の戦いで柴田勝家を破る、大坂築城
- 天正12年 小牧長久手の戦い
- 天正13年 関白
- 天正14年 太政大臣
- 天正15年 九州平定
- 天正18年 小田原の後北条氏を討伐
- 天正19年 関白を秀次に譲る、
- 文禄元年 朝鮮出兵
- 文禄2年 秀頼誕生
- 文禄4年 秀次を自害させる
- 慶長2年 第2次朝鮮出兵
- 慶長3年 死去(享年62)
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戦国武将・合戦事典
戦国乱世を読み解く、武将・氏族・合戦の計1063項目を三編に分け解説。肖像・花押・合戦図屏風などを多数掲載し、読むほどに興味と理解が広がる入門書としても最適な本格的事典。ユニークな在世年表、便利な索引付。
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4月 4th,2009
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蒲生氏郷は近江日野城主 蒲生賢秀の子で、秀吉や光秀、清正などよりは出自がかなり良いわけですが、
彼らほどの強い印象を与えないのは、やはり「豪族の子」であるからでしょうか。
ただ、本能寺の変の時に多くの武将が様子見をしていた時に、いち早く信長の夫人たちをかくまい、
豊臣秀吉に従う姿勢を明確にします。
これが後に秀吉が三法師をかついで、実質上の信長の後継者になる伏線になります。
その後、蒲生氏郷は小牧長久手の合戦の功により、伊勢松ケ島城主となります。
彼はこの地を松阪とし、城下町を整備し、商人を呼び寄せます。
これが、江戸時代以降に繁栄する松阪商人(伊勢商人)の始まりですね。
さらに小田原攻めでも戦功のあった蒲生氏郷は会津若松城主となります。
これは江戸の徳川家康と仙台の伊達正宗の両方に睨みを利かせようと秀吉が考えたのでしょう。
そして、奥州で葛西氏や大崎氏の反乱が起こるといち早く鎮圧し、
結局、92万石の大大名に出世します。
その後も文禄の役で名護屋城で秀吉の側に仕えたり、陸奥の国の検地を行ったりと大活躍でしたが、
結核により40歳の若さで死んでしまいます。
蒲生氏郷がもっと長生きしていたら、家康は天下を取れなかったかもしれませんね。
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戦国の武将三十人
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豊臣秀吉、毛利元就、蒲生氏郷ほか有名武将が総登場。史学の泰斗が逸話で描く戦国時代。
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蒲生氏郷の年譜
- 弘治2年(1556) 近江日野城主 蒲生賢秀の子として誕生
- 永禄12年(1568) 蒲生賢秀、織田信長に降伏。氏郷は岐阜城で人質となる。
- 天正10年(1582) 本能寺の変の時に信長の夫人たちを日野城にかくまう
- 天正12年(1584) 小牧長久手の戦いの後、伊勢松ヶ島城主(12万石)
- 天正18年(1590) 小田原攻めの後、会津若松城主(42万石)
- 天正19年(1591) 葛西、大崎の反乱を鎮圧。92万石に加増。
- 文禄4年(1595) 京で病死(40歳)
4月 4th,2009
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槍の又左衛門と呼ばれるほどの槍の名手でもあった前田利家は、小さな豪族の4男坊ということで、
喧嘩はするし、派手な着物も着る美男子で、織田信長とよく似ていますね。
前田利家はそのあたりがおそらく原因で、信長にかわいがられます。
しかし、信長寵愛の茶坊主を斬ったことから彼は織田家を追放されます。
桶狭間の戦いでは追放の身でありながら、織田方として活躍するのですが、
それでも許されず、前田利家が織田家に戻るのは信長の美濃攻略時です。
その後、信長の側近として政治力を磨き、北国方面司令官であった柴田勝家の与力となります。
本能寺の変の後は柴田勝家に従うと見せながら、賤ケ岳の戦いで親友の豊臣秀吉側に寝返ったのはあまりにも有名ですね。
豊臣政権下では、金沢城主として北国ににらみをきかせながら、秀頼の補佐役を命じられます。
5大老の一人で権大納言として、豊臣政権の実質的なNo.2でしたが、
秀吉の死の翌年に前田利家も死にます。
その豊臣恩顧の大名としての立場と、大大名としての力から徳川幕府に最も警戒された前田家ですが、
前田利家と松夫人の政治的なしたたかさが子孫にも受け継がれ、幕末まで加賀100石は安泰でした。
前田利家の年譜
- 天文 7年(1538) 前田利昌(尾張荒子城主)の4男として誕生
- 永禄 3年(1560) 桶狭間の合戦に参加
- 天正 3年(1575) 越前府中城主
- 天正 9年(1581) 能登七尾城主
- 天正10年(1582) 本能寺の変
- 天正11年(1583) 賤ケ岳の戦い後、金沢城主
- 天正13年(1585) 佐々成政を攻略し、能登1国、加賀2郡、越中2郡に加増
- 天正18年(1590) 北条攻めで上野松井田城、西牧城、武蔵八王子城を攻略
- 慶長 2年(1597) 5大老、権大納言
- 慶長 4年(1599) 家康を詰問(2月)、大坂城内で病没(閏3月)
4月 4th,2009
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1豪族にすぎなかった毛利氏を中国地方のほとんどを領有する大大名にした立役者が毛利元就でした。
情勢に応じて、他の豪族たちと連合したり、子供たちを政略結婚させたり、謀略を使ったりと、
毛利元就のことを詳しく調べると、典型的な戦国武将の姿が見えてきます。
3本の矢の話は作り話らしいですが、毛利元就は子供の教育にも熱心だったようで、
4人の子供たちは毛利氏隆盛のために獅子奮迅の働きをしました。
また、孫の毛利輝元は関が原の戦いの時に石田三成によって、
西軍の大将に祭り上げられますが、家臣たちの政治工作によって領土は縮小されたものの、
幕末まで長州藩として毛利家は存続します。
このことからも、秀才型の政治家 毛利元就の教えが毛利家とその家臣団に連綿と受け継がれていったことがわかりますね。
毛利元就の年譜
- 明応 4年(1497) 毛利家の次男として生まれる
- 大永 3年(1523) 毛利家の当主となる(安芸吉田の郡山城主)
- 大永 4年(1524) 弟元綱を殺し、大内氏と同盟を結ぶ
- 天文 9年(1540) 尼子氏に攻撃されるが、撃退
- 天文10年(1541) 大内氏の尼子攻めに従うが敗退
- 天文19年(1550) 次男元春を吉川家の、三男隆景を小早川家の養子に送り込む
- 天文20年(1551) 陶晴賢が大内義隆を殺す
- 天文24年(1555) 厳島の戦いで陶晴賢を破る
- 弘治 3年(1557) 大内義長を滅ぼし、大内領を併合
- 永禄 5年(1562) 尼子攻め
- 元亀 2年(1571) 尼子氏再興を図る山中鹿之助を討伐、病没
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4月 4th,2009
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平家物語の最初の悲劇のヒーローとも言うべき源頼政は清和源氏の嫡流 摂津源氏の棟梁で、
歌人としても当時から名高い人でした。
しかし、源頼政は源義朝などの河内源氏と較べて勢力が弱く、
終始 後白河法皇側について戦ったわりには恩賞もなく、
昇進のスピードも平家に較べてきわめて遅いものでした。
晩年になって平清盛の口ぞえでようやく従三位に昇ります。
ところが高倉宮以仁王をたきつけて平家打倒を画策し、宇治の平等院で自刃に追い込まれます。
今で言う写実的な歌風が当時から高く評価されており、
新古今集にも選ばれています。
そんなところも平家物語以来、歌人であり武者であった悲劇のヒーローとして、
源三位頼政が非常に人気がある原因かもしれませんね。
源三位頼政の年譜
- 長治元年 兵庫頭 源仲正の長男として生まれる。母親は藤原友実の女。
- 保元元年 保元の乱で後白河天皇方の源義朝の配下として出陣
- 平治元年 平治の乱で平清盛側として出陣
- 仁安元年 正五位下に叙せられ昇殿を許される
- 治承二年 平清盛の推薦で従三位に叙せられ公卿に列す
- 治承三年 出家
- 治承四年 平家打倒を画策するも宇治川の戦いで破れ自刃
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平家物語は、なぜ、日本人の心をとらえるのか。
古典文学に造詣の深い著者が、代表的登場人物を通して清新な筆致で描く。
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平家打倒の挙兵
源三位頼政の子供の源仲綱が伊豆守として伊豆に赴任した関係で、
頼政は源頼朝や東国武士団との連携を深めていたと推測されます。
源三位頼政は東国の頼朝と連携して平家打倒を画策し、高倉宮以仁王をたきつけて平氏追討の令旨をもらい、
密かに源行家に令旨を持たせて諸国の源氏の蜂起を呼びかけました。
このような彼の行動が平家の知るところとなり、
源三位頼政は、高倉宮以仁王とともに南都の僧兵を頼って奈良に向かっていました。
以仁王らの策略を察知した平家は、平知盛らに大軍を指揮させて以仁王らに迫ってきます。
源三位頼政は平等院に陣をしき、平家は宇治川の北岸から攻めたてました。
これが平家物語で有名な宇治川の戦いです。
兵力に劣る頼政は奮戦およばず敗退し、頼政は平等院内で自刃しました。
治承4年5月26日のことで、享年77と言われております。
源三位頼政が自刃した場所が、「扇の芝」として伝えられており、
頼政の墓地も平等院内にあります。
源三位頼政の歌
新古今の作歌技量をベースとしながら、現代的な写実の心に近いものを持っていた歌人。
代表作は
- 深山木のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり (詞花集)
- 今宵たれすずふく風を身にしめて吉野のたけに月を見るらん (新古今集)
- 都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関 (千載集)
- 庭の面はまだかわかぬに夕立の空さりげなくすめる月かな (新古今集)
- 埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける (平家物語)
「深山木のー」は平家物語や源平盛衰記にも引用されている名歌。
冬の枝枯れの中から山桜が花を咲かせる様子を見事に詠んでいます。
「埋れ木のー」は辞世の歌。平家物語前半のハイライトシーンですね。
百人一首92の「我わ袖はー」の作者の二条院讃岐は源三位頼政の娘です。
また小侍従は彼の恋人と言われております。
4月 4th,2009
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直江兼続は越後 上田庄の長尾政景の奉行の樋口氏の息子として生まれました。
直江兼続は若くして、長尾景虎(のちの上杉謙信)の養子になった長尾政景の子の長尾景勝(のちの上杉景勝)の小姓となります。
直江兼続は文武両道に優れ、上杉謙信亡き後の跡目争い(お館の乱)を上杉景勝の勝利に導きます。
彼は豊臣秀吉や石田三成にも認められ、上杉家の会津への領地換えにも、大きな役割を果たし、主君の上杉景勝は豊臣政権の5大老にまで上り詰めます。
そのとき、直江兼続も上杉景勝配下でありながら、30万石の米沢城主となります。
しかし、豊臣秀吉の死後、上杉家は徳川家康から警戒され、無理難題をふっかけられます。
直江兼続は1戦を覚悟して家康の非を責めた書状を送りつけます。これが、世に名高い直江状ですね。
これに激怒した家康は、上杉討伐軍を組織して、上方から江戸を経て、上杉領に向かいます。
この機に石田三成はちは挙兵し、家康達は小山の軍議を経て、上方に向かいます。
その間にも、最上や伊達は北から上杉領を攻めるのですが、直江兼続は逆に、最上氏の軍勢を打ち破り、最上領深くまで侵攻しました。
しかし、石田三成らは関が原の戦いで破れ、上杉氏は直江兼続の指導のもと、家康に降伏し、米沢への国替えを受け入れました。
彼は家康の怒りを解くために、家康側近の本多正信の子、政重を養子にしています。
直江兼続は、主君の上杉景勝よりも優れた武将でありながら、主君のため、上杉家のために最後まで忠誠を尽くしました。
戦国時代には稀に見る忠義の武将と言えるでしょう。
直江兼続の年譜
- 永禄3年(1560) 上田庄に生まれる
- 天正6年(1578) 上杉謙信 急死(3月)
- 天正7年(1579) 上杉景虎自刃、御館の乱終息
- 天正10年(1582) 本能寺の変
- 天正14年(1586) 上杉景勝、豊臣秀吉に謁見
- 慶長3年(1598) 上杉家 会津移封
- 慶長4年(1599) 関が原の戦い
- 元和5年12月19日 直江兼続、江戸で死去。享年60。
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4月 4th,2009
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長尾景虎、のちの上杉謙信は末子のために父に愛されず、寺に預けられていましたが、兄が病弱のために、
弱冠14歳で守護代名代として戦国の世の真っ只中に放り込まれます。
彼の性格として、義に厚く、潔癖で、無欲。異常な宗教心や直情径行、感情の起伏が激しい、人間関係の構築が苦手、ホモの傾向などが
昔から言われてきました。
確かに、上洛し天皇に拝謁したり、室町幕府を重んじて戦さに破れた関東管領を助けました。
川中島の合戦の原因も北信濃の豪族を助けるためでした。
その一方、下の年表でもわかるように、何回も有力な部下の反乱にあっています。
しかし、守護の上杉氏の力を借りて守護代になり、その上杉氏の縁で越後にやってきた関東管領を押し立てて小田原城を攻囲し、
その間にちゃっかり鎌倉で関東管領に就任するなど政治的な手腕では、むしろ武田信玄をしのぐ感すらあります。
後年には、駿河の今川氏と同盟したり、一時的に北条氏と和平したり、
はじめは鋭く対立していた加賀一向一揆とも、織田軍来襲によって同盟を結んで、
手取川で柴田勝家を撃破しています。
上杉謙信のもうひとつの特徴は、ともかく、彼自信がよく行軍し、よく戦闘をするということです。
たとえば永禄4年には、上野の厩橋城(今の前橋)で正月を迎え、3月に小田原まで行って小田原城を攻囲し、
閏4月に鎌倉鶴が岡八幡宮で関東管領への就任式を行い、6月に越後に帰国。
8月に信濃の妻女山に布陣して武田信玄と対峙し、9月10日に八幡原で武田軍と激闘を演じます(有名な川中島の戦い)。
これで、かなりの痛手を受けたはずですが、11月には関東の武蔵生山で北条軍と戦っています。
まさに東奔西走、獅子奮迅の活躍ですが、彼が天才的、超人的というだけでなく、
行軍するにも糧食が必要ですし、褒美がなければ誰も命をかけて故郷を離れた土地で戦えるものではありません。
越後というと佐渡金山が思い浮かびますが、これは江戸時代に開発されたもので、この時代のものではありません。
謙信はどうやら経済観念に優れた武将であったようで、領国内に近代的な税制を敷いて、
米だけでなく工芸作物などからも税金を取り立てるとともに、謙信を頼ってきた北信濃や北関東の武将達に金銭や糧食を貸し付けて、
高額な利子を得ていたようです。
言い方を変えると、中世の領地=農地を財政基盤としたのではなく、近代の鉱工業を含む生産と流通の全てに税を課す、
近代的な絶対王政的な支配体制を確立していたということです。
こう考えると、自らを毘沙門天の化身とした謙信は、自らを神とした織田信長と本質的には同じであったと言えるでしょう。
ともかく、京から遠く、武田信玄や北条氏などの強敵と接していた上杉謙信は、
上洛も関東制覇も達成することなく脳梗塞で病没してしまいました。
上杉謙信(長尾景虎)の年譜
- 享禄3年(1530) 越後守護代 長尾為景の末子として誕生
- 天文12年(1543) 病弱な守護代の兄 長尾晴景の名代として栃尾城入城
- 天文13年(1544) 栃尾城に来襲した長尾俊景を撃退
- 天文14年(1545) 反乱した黒田秀忠を滅ぼす
- 天文17年(1548) 兄晴景と戦い、越後守護上杉定実の仲介で守護代に就任
- 天文21年(1552) 関東管領上杉憲政、長尾景虎を頼って越後下向
- 天文22年(1553) 第1回の川中島の合戦
- 弘治元年(1555) 信玄と通じた北条高広を征伐、第2回の川中島の合戦
- 弘治2年(1556) 引退表明、のちに撤回、反乱した大熊朝秀を討つ
- 弘治3年(1557) 第3回の川中島の合戦
- 永禄2年(1559) 上洛
- 永禄3年(1560) 越中富山城を攻撃、関東管領上杉憲政を旗印に関東出陣、沼田城を攻略
- 永禄4年(1561) 小田原城攻撃(3月)、鎌倉で関東管領に就任(閏4月)、第4回の川中島の合戦で武田信玄と激闘を演じる(8月)
- 永禄5年(1562) 上野館林城を攻略
- 永禄6年(1563) 武蔵騎西城を攻略
- 永禄7年(1564) 常陸小田城を攻略、第5回の川中島の合戦
- 永禄9年(1566) 下総臼井城を攻撃、越中増山城を攻撃
- 永禄11年(1568) 越中出陣中に本庄繁長が謀反
- 永禄12年(1569) 北条氏康と講和、越中金山城を攻略
- 元亀元年(1570) 下野佐野城を攻略、北条氏康の子の氏秀を養子とする
- 元亀2年(1571) 越中富山城を攻略(3月)、上野総社城を攻撃(11月)、北条氏政、上杉謙信との講和を破棄(12月)
- 元亀3年(1572) 上野石倉城を攻略(閏1月)、加賀一向一揆の蜂起(5月)、冨山城を攻略(8月)
- 天正元年(1573) 加賀朝日山城を攻撃
- 天正2年(1574) 春と秋に2度関東出陣
- 天正4年(1575) 越中栂尾城、増山城を攻略
- 天正5年(1576) 能登七尾城、末森城を攻略
- 天正6年(1577) 柴田勝家を主将とする織田軍を手取川に撃破
- 天正7年(1578) 急死(3月)、享年49
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4月 4th,2009
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高坂弾正(昌信)は石和の豪農春日氏の生まれで春日源助のちに春日虎綱と名乗っていたようです。
抜群の美貌?で武田晴信に奥小姓として召抱えられます。
武田晴信が高坂昌信に浮気?を詫びた書状が現存しており、相当に深い仲だったと思われます。
長じて後は、用兵が極めて巧みで高坂弾正は「逃げの弾正」と呼ばれていました。
武田信玄の信頼は絶大で、最前線の重要な城の城主を歴任し、
川中島の決戦後は北信濃全域を任されています。
その功績で信濃の名家高坂家の名跡を継いで高坂弾正忠昌信と名乗ります。
長篠の戦いで破れた武田勝頼を出迎えたのも高坂弾正でしたが、
その3年後に病死します。
高坂弾正は武田の最盛期を駆け抜けた武将と言えるでしょう。
高坂弾正の年譜
- 大永7年(1527) 石和の豪農 春日大隈の子として生まれる。
- 天文11年(1542) 武田晴信の奥小姓として出仕
- 天文21年(1552) 信州小岩嶽城攻めの功により侍大将
- 天文22年(1553) 小諸城主
- 弘治2年(1556) 雨飾城主
- 永禄2年(1559) 海津城主
- 天正6年(1578) 病死。享年52
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4月 4th,2009
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小説「風林火山」などで有名な山本勘助ですが、甲陽軍艦にしか記述されていない謎の人物です。
甲陽軍艦以外では武田晴信から信濃の国人に当てた書状に、使者として山本菅助という人物が出てくるだけです。
そのため、以前より山本勘助は架空の人物との説が強いですね。
そもそも甲陽軍艦は史実とは異なる記述が多く、1級の歴史資料とは言えません。
甲陽軍艦の作者は高坂昌信とされますが、本当の作者はおそらく高坂昌信に近い別人であると考えられています。
以下に示します甲陽軍艦の記述では、数々の功績はあるものの、諏訪の姫を武田晴信の側室としたこと、
川中島の戦い(第4次)で啄木鳥戦法を提案し、多くの武将を討ち死にさせたことなど、
武田家にとって負の側面も強いものです。
高坂昌信が武田晴信の奥小姓であったことを考慮すると、
武田晴信自身の大きな失策を、山本勘助という架空の人物に託することが甲陽軍艦の隠された意図ではないかと考えられます。
山本勘助が召抱えられたのが諏訪家滅亡の前年というのも話ができすぎていますね。
甲陽軍艦によると山本勘助の生まれは三河の牛窪。
東三河六騎衆の山本氏の養子で、各地を武者修行し、京流軍学を会得したとされる。
容姿は醜く、色黒で隻眼、無数の向う傷があり、足が不自由だったため、今川家への仕官を断られる。
その後、築城術などを認められて武田家家臣となり、諏訪家滅亡後は、諏訪頼重の娘を武田晴信の側室にし、
諏訪領安定を画策。
天文15年の戸石崩れでは、陽動作戦を指揮し、全滅を免れる。この功績で山本勘助は足軽大将に抜擢されました。
その後、高遠城や小諸城の築城や、上田原の戦い、海津城の築城など数々の功績をあげます。
そして、有名な川中島の戦い(第4次)で啄木鳥戦法を提案するが、上杉謙信に見破られ、多くの武田の武将が討ち死にしたが、
その中に山本勘助がいた。
山本勘助の年譜(甲陽軍艦の記述 内容だけでなく年号にも誤りがある)
- 天文12年(1543) 武田家に200貫で召抱えられる。
- 天文13年(1544) 諏訪家滅亡。頼重の娘を晴信の側室に推挙する。
- 天文15年(1546) 戸石崩れ。武田軍の崩壊を救い足軽大将になる。
- 天文16年(1547) 上田原の戦い。勘助の策で逆転勝利。
- 天文22年(1553) 海津城築城
- 永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い。勘助の啄木鳥戦法が謙信に見破られ、勘助も討ち死に。
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4月 4th,2009
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板垣氏は甲斐源氏の傍流にあたり、板垣信方は武田信虎、武田晴信(信玄)の2代にわたって仕えました。
板垣信方は武田晴信の傅役となり、
武田信虎追放劇では主導的な役割を果たし、武田晴信政権樹立後は甘利虎泰とともに「両職」として、
政治、軍事の両面で信玄を支えました。
甲陽軍艦では山本勘助を推薦したのも板垣信方ということになっています。
諏訪氏攻略後は諏訪の郡代として、信濃経営の基礎を築きました。
上田原の戦いでは緒戦の勝利に油断し、村上軍の急襲で壮絶な戦死を遂げます。
板垣信方については、晴信を助ける宿老としての側面と、自らが信濃での戦国大名化を目指す豪族としての両面があるようで、
甲陽軍艦などの軍記物では後者の立場を非難する記述が目立ちます。
しかし、後者はあくまでも晴信が凡庸であったらの話であり、
実際に武田家にとって代わろうという行動を起こしていたわけではありません。
信方の子の信憲は父の死後、諏訪城代となりますが、天文21年に武田晴信によって処刑されています。
その後、於曽光経が板垣信安となって板垣家を再興し、勝頼の時代に駿河田中城主となります。
なお、明治時代の自由民権運動家の板垣退助は信方の直系の子孫と称しておりました。
それによると信方の孫が浪人中に関が原の戦いで山内一豊軍に参加し、
後に山内家の重臣乾家の養子となりました。板垣退助はもともと乾姓でしたが、このことにより板垣姓に改姓しています。
板垣信方の年譜
- 大永元年(1521)侵入してきた今川氏親の武将福島正成を夜襲により撃退
- 天文四年(1535) 武田信虎と外交問題で対立。駿河侵攻を命じられる。
- 天文10年(1541) 武田信虎追放に同調し、武田晴信を擁立
- 天文12年(1543) 佐久の志賀城攻略
- 天文14年(1545) 高遠城攻略
- 天文15年(1546) 笛吹峠で上杉憲政軍を破る
- 天文16年(1547) 村上氏に敗れる
- 天文17年(1548) 上田原の戦いで討ち死にする
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4月 4th,2009
武田軍団 | tags:
板垣信方,
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