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	<title>インターネット歴史事典</title>
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	<description>日本や世界の歴史上の人物や出来事をご紹介しております。</description>
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		<title>尼子晴久</title>
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		<pubDate>Sat, 17 Oct 2009 02:24:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[中国地方の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[尼子晴久]]></category>
		<category><![CDATA[尼子氏]]></category>

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		<description><![CDATA[尼子氏は宇多源氏の佐々木高氏（道誉）の孫の高久が、近江国甲良荘尼子郷に居住し、名字を尼子と称したのに始まると言われています。高久の次男の持久のときに、宗家の京極氏（佐々木氏）に従って出雲に下向し、出雲守護代となります。
 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>尼子氏は宇多源氏の佐々木高氏（道誉）の孫の高久が、近江国甲良荘尼子郷に居住し、名字を尼子と称したのに始まると言われています。高久の次男の持久のときに、宗家の京極氏（佐々木氏）に従って出雲に下向し、出雲守護代となります。</p>
<p><P><br />
尼子氏は代々出雲と隠岐の守護代を世襲し、周辺の国人を従えていきます。<br />
<P><br />
尼子晴久（詮久）の祖父の尼子経久のときに一時、居城の月山富田城を失いますが、その後、月山富田城を奪還し、守護の京極氏の勢力を排除して、尼子氏は山陰の有力戦国大名となりました。<br />
<P><br />
尼子晴久は尼子経久の嫡男　政久の次男でしたが、彼が生まれた時にはすでに長男は他界しており、彼が４歳の時に父の尼子政久も討死したために、若くして尼子家の当主となります。<br />
<P><br />
下記に示す年賦に示されているように尼子晴久は毎年のように各地に出陣し、積極的な領土拡張策をとりました。尼子氏の軍事力を恐れた周辺の国人領主たちは次々に尼子氏の傘下に入りました。<br />
<P><br />
毛利氏の居城　吉田郡山城攻めで大内軍に大敗し、一時、勢力が大きく後退しますが、月山富田城に攻めてきた大内義隆を撃破し、勢力を回復しました。<br />
<P><br />
天文21年には山陰山陽8ヶ国の守護を任じられるほど、その勢力は拡大し、最大版図は出雲・隠岐・伯耆・美作・備前西部・備中北部・備後北部・因幡西部・石見東部におよんでおり、大内氏、毛利氏と支配を争った石見銀山も、かなりの期間、尼子氏の支配下にあった。<br />
<P><br />
尼子氏は最終的には中国地方の支配者になれなかったことや、新宮党の粛清など、尼子晴久は毛利元就と比較して、それほど高く評価されてはいませんが、その戦略眼や軍事作戦遂行能力、家臣を把握するカリスマ性や外交手腕のどれをとっても、超一級の戦国大名と言えるでしょう。<br />
<P><br />
特に、いち早く鉱山経営を重視し、日本海の海運を利用した交易ルートを確立するなど、「毛利氏に滅ぼされた名門守護　尼子氏」のイメージとはほど遠い、先進的な近世的領国経営の手腕は高く評価されるべきでしょう。<br />
<P><br />
しかしながら、毛利元就、豊臣秀吉、徳川家康などに比べて尼子晴久は若くして急死したために、尼子氏の戦国大名化は道半ばで頓挫します。<br />
<P><br />
歴史に「たら」は禁物ですが、あとを継いだ尼子義久がもう少し尼子晴久流の積極的な軍事行動、周辺国人領主の調略、尼子家内部での中央集権化などを理解していたならば、中国地方の覇者は尼子氏であった可能性が高いと思われます。</p>
<p><H3>尼子晴久の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>永正11年(1514)　尼子経久の嫡男　政久の次男として生まれる<br />
<LI>永正15年(1518)　父の尼子政久、出雲　阿用城攻めで討ち死に<br />
<LI>享禄4年(1531)　備後へ出陣<br />
<LI>享禄5年(1532)　美作、備前へ出陣<br />
<LI>天文6年(1537)　尼子経久の隠居により家督相続。尼子経久の三男興久を粛清<br />
<LI>天文7年(1538)　石見銀山を攻略。播磨で美作、備前、播磨3カ国の守護　赤松晴政に大勝<br />
<LI>天文8年(1539)　播磨　龍野城を攻略<br />
<LI>天文9年(1540)　吉田郡山城を攻撃するも、大内毛利連合軍に大敗し、石見、安芸方面の勢力後退<br />
<LI>天文10年(1541)　尼子経久　逝去<br />
<LI>天文11年(1542)　大内義隆　月山富田城に来襲するも撃退<br />
<LI>天文12年(1543)　石見銀山を奪還<br />
<LI>天文13年(1544)　備後で児玉就忠、福原貞俊を撃退<br />
<LI>天文17年(1548)　美作高田城主の三浦氏を配下に加える<br />
<LI>天文20年(1551)　備前守護代　浦上政宗と同盟し、備前に出陣<br />
<LI>天文21年(1552)　大友義隆の死により山陰山陽8ヶ国（出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後）の守護及び幕府相伴衆に任命される（すべてを実効支配していたわけではない）<br />
<LI>天文22年(1553)　美作勝山で浦上宗景、後藤勝基を撃破。備後国高へ出陣し陶晴賢と対峙<br />
<LI>天文23年(1554)　新宮党の尼子誠久親子を粛清<br />
<LI>弘治元年(1555)　陶晴賢　厳島で毛利元就に敗れ自害<br />
<LI>弘治2年(1556)　石見忍原で毛利元就を撃破、石見銀山を再奪還<br />
<LI>永禄2年(1559)　尼子方の石見温湯城主　小笠原長雄が毛利方に降服。尼子方の本城常光が撤退中の毛利勢を撃退<br />
<LI>永禄3年(1560)　尼子晴久　急死。享年47<br />
　<br />
</UL></p>
<p><HR></p>
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		<title>長宗我部元親</title>
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		<pubDate>Thu, 01 Oct 2009 11:40:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[四国の戦国大名]]></category>

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		<description><![CDATA[長宗我部氏は渡来人の秦氏の系列で、長宗我部元親は20代目の当主といわれています。
長宗我部氏は土佐の長岡郡宗部郷の在地領主で13-14世紀にすでに岡豊城を築城しているようです。

幼少のころは長身、色白でおとなしく、「姫 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>長宗我部氏は渡来人の秦氏の系列で、長宗我部元親は20代目の当主といわれています。<br />
長宗我部氏は土佐の長岡郡宗部郷の在地領主で13-14世紀にすでに岡豊城を築城しているようです。<br />
<P><br />
幼少のころは長身、色白でおとなしく、「姫若子」と言われていたようです。<br />
それで、初陣も22歳と当時としては非常に遅いのですが、その年に父の国親の急死によって家督を相続します。<br />
<P><br />
当初、長宗我部元親は公家大名の一条氏と共同戦線を張って、本山氏、安芸氏、津野氏などの周辺の豪族を従えていきます。<br />
<P><br />
一条氏の当主の早世が続いて一条氏の力が衰えると、天正2年には一条兼定を追放し、翌年、再起をはかる一条兼定を四万十川の戦いで破り、土佐をほぼ制圧しました。<br />
<P><br />
さらに、長宗我部元親は織田信長と結んで讃岐や阿波の三好一党を攻撃し、天正8年には両国をほぼ手中にします。<br />
<P><br />
しかし、天下統一を目指す織田信長と対立し、織田信長は息子の神戸信孝を総大将とした四国征伐軍を組織しますが、本能寺の変の後、十河存保を中富川の戦いで破って、讃岐と阿波の支配権を確立します。<br />
<P><br />
この間、長弟の親貞に吉良氏に、次弟の親泰に香宗我部氏に、三男の親忠を津野氏に、次男の親和を香川氏に送り込み、長宗我部一族による支配体制を固めていきます。<br />
<P><br />
四国統一を悲願とする長宗我部元親は羽柴（豊臣）秀吉とも対立し、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家と、小牧・長久手の戦いでも織田信雄や徳川家康と結んで秀吉に対抗し、秀吉の命で四国に侵攻した仙石秀久を破っています。<br />
<P><br />
天正13年、ようやく長宗我部元親は伊予も平定し四国統一を成し遂げますが、時すでに遅く、10万を超える秀吉軍の前に屈伏させられ、土佐１国のみ安堵されます。<br />
<P><br />
翌年、長宗我部元親は宿敵であった仙石秀久や十河存保とともに秀吉の九州征伐の先鋒として豊後に向かいますが、長宗我部元親や十河存保の反対を押し切った軍監　仙石秀久の命で12月に豊後　鶴賀城の救援に向かいます。<br />
仙石秀久は無謀にも戸次川の渡河作戦を決行し、島津の釣り野伏せの前に大敗し、元親の長男　長宗我部信親や十河存保が討死します。<br />
<P><br />
四国統一の悲願実現から2週間ほどで秀吉に夢を断たれ、そして長男　信親を失った長宗我部元親は失意のどん底に落ちます。<br />
また、多大な犠牲を払った家臣団も、結局のところ土佐１国のみとなってしまったことに、元親への忠誠心が薄らいでいきます。<br />
<P><br />
ここで、長宗我部元親は一門の比江山親興、吉良親実などの反対派を粛清し、四男盛親への家督相続を強行し、長宗我部家臣団の結束をはかろうとしました。<br />
<P><br />
その後、長宗我部元親は小田原征伐、朝鮮出兵にも出陣しますが、豊臣秀吉からは信頼されることはなかったようです。<br />
秀吉の死後は徳川家康に接近し、豊臣家に近い三男の津野親忠を幽閉したりしましたが、慶長4年　上洛後、病を得て亡くなります。<br />
<P><br />
長宗我部元親のあとを継いだ長宗我部盛親は関ヶ原の戦い当初、東軍に与するはずでしたが、長束正家に説得されて西軍に参戦してしまいます。長宗我部盛親は東軍方の城を落としながら関ヶ原に参陣しますが、毛利氏などどともに実際の戦闘には参加していません。<br />
<P><br />
関ヶ原の戦いの後、長宗我部盛親は軍を率いて土佐に戻りますが、長宗我部元親以来の野望を恐れた徳川家康は長宗我部を改易とし、領土を没収してしまいます。<br />
島津や毛利、上杉、鍋島など西軍に与した大大名の多くが滅亡を免れたのにもかかわらず、長宗我部氏が改易させられたのは、信親の戦死以降の長宗我部家内での内紛を見て、徹底抗戦するだけの力なし、と見なされたのでしょうか。<br />
<P><br />
浪人した長宗我部盛親は大坂冬の陣と夏の陣に、ともに豊臣方として参戦します。特に大坂夏の陣の八尾・若江の戦いでは、藤堂高虎勢を打ち破るなど、長宗我部氏の武勇を見せつけますが、豊臣方は全体としての統制がとれておらず破れてしまいます。長宗我部盛親は逃走中に京で捕えれ斬首され、ここに21代を誇った長宗我部氏は滅亡しました。<br />
<P><br />
九州統一を目指した島津氏が幕末まで薩摩・大隅の本領を維持したのに対して、四国統一を目指した長宗我部氏の滅亡は、家臣団の結束がいかに大事かを後世に伝えてくれるようです。<br />
<P><br />
余談ですが、明治維新を推進した薩長土肥の中に坂本竜馬の土佐藩が入っているのは、長宗我部氏以来の反骨精神、反徳川の風土が山内一豊以来の土佐藩にも引き継がれていたからでしょうか。</p>
<p><P></p>
<p><H3>長宗我部元親の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>天文8年(1539)　長宗我部国親の長男として生まれる<br />
<LI>永禄3年(1560)　国親の急死により家督相続<br />
<LI>永禄12年(1569)　八流の戦いで安芸氏を滅ぼす<br />
<LI>天正2年(1574)　一条兼定を追放して土佐を制圧<br />
<LI>天正8年(1580)　阿波、讃岐両国をほぼ平定<br />
<LI>天正10年(1582)　神戸(織田）信孝を総大将とした四国征伐軍が編成される。本能寺の変。中富川の戦いで十河存保を破る<br />
<LI>天正12年(1584)　秀吉配下の仙石秀久を引田の戦いで破る<br />
<LI>天正13年(1585)　四国全土を平定。羽柴秀長10万の大軍で四国侵攻。長宗我部元親は降伏し、土佐１国のみ安堵される。<br />
<LI>天正14年(1586)　仙石秀久、十河存保らと秀吉の九州征伐の先鋒として出陣し、戸次川の戦いで大敗。息子　信親　討死<br />
<LI>天正16年(1588)　一門の比江山親興、吉良親実などを粛清し、四男盛親への家督相続を強行<br />
<LI>慶長4年(1599)　病死　享年61<br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank">人物文庫 立花道雪</A><br />
「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。
</td>
</tr>
</table>
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		<title>大村純忠</title>
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		<pubDate>Mon, 28 Sep 2009 08:50:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[大村純忠]]></category>

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		<description><![CDATA[大村氏は藤原純友を先祖とする在地領主ですが、家臣団や親戚筋の力が強く、強力な戦国大名になれないままでした。

そこで、大村純前は実子の又八郎（後の後藤貴明）を武雄の後藤家に養子に出し、隣国の大名の有馬晴純の子を養子として [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>大村氏は藤原純友を先祖とする在地領主ですが、家臣団や親戚筋の力が強く、強力な戦国大名になれないままでした。<br />
<P><br />
そこで、大村純前は実子の又八郎（後の後藤貴明）を武雄の後藤家に養子に出し、隣国の大名の有馬晴純の子を養子として貰い受けて、大村・有馬・後藤の３家連合を模索します。<br />
<P><br />
この有馬晴純の息子こそ、キリシタン大名として名高い大村純忠です。<br />
<P><br />
大村純忠はキリシタンの洗礼を受けると、ポルトガル人たちに当時、寒村だった長崎の港を開港し、のちに周辺の土地をイエズス会に寄進しています。<br />
<P><br />
これによって大村純忠は有馬氏とポルトガル人たちの支援を得て、松浦・後藤連合軍や龍造寺軍に対抗しました。<br />
<P><br />
一時、攻勢を強める龍造寺隆信に４人の息子を人質に取られた時もあったが、沖田畷の戦い後は有馬晴信のあっせんで島津に属し、豊臣秀吉の九州征伐時にはいち早く降伏し、本領を安堵されています。<br />
<P><br />
養父の大村純前は婚姻関係を構築して大村氏の存続をはかりましたが、大村純忠はポルトガル人の力を借りて難局を乗り切りました。<br />
<P><br />
大村純忠の死後、バテレン追放令が出されると息子の大村喜前は日蓮宗に改宗し、キリシタンを弾圧しました。<br />
それによって、大村氏は肥前大村藩として幕末まで存続します。<br />
<P><br />
九州で本領を安堵されて幕末まで存続したのは、島津氏、肥前の鍋島氏（龍造寺氏）、人吉の相良氏と大村氏のみであり、あまり知られてはいませんが、大村家代々の時代を読む処世術のすごさがわかると思います。</p>
<p><H3>大村純忠の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>天文2年(1533)　有馬晴純の子供として生まれる<br />
<LI>天文19年(1550)　大村純前の養子となる<br />
<LI>永禄6年(1563)　キリシタンの洗礼を受ける<br />
<LI>永禄13年(1570)　長崎港をポルトガル人に開港<br />
<LI>元亀3年(1572)　松浦・後藤連合軍を撃退<br />
<LI>天正6年(1578)　長崎で龍造寺軍を撃退<br />
<LI>天正8年(1580)　長崎港周辺をイエズス会に寄進<br />
<LI>天正12年(1584)　沖田畷の戦いでは龍造寺軍に属するが、龍造寺敗戦後は島津に属する<br />
<LI>天正13年(1585)　豊臣秀吉の九州征伐時に降伏し、本領安堵<br />
<LI>天正15年(1587)　病死。享年55<br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
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</td>
<td>
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「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。
</td>
</tr>
</table>
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		<title>相良頼房</title>
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		<pubDate>Fri, 25 Sep 2009 09:31:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[相良頼房]]></category>

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		<description><![CDATA[相良氏は源頼朝から人吉荘の地頭職を賜った、いわゆる下り衆で、戦国期には在地の小領主達の連合体の盟主という立場でした。

有名な相良家法度は、相良氏ではなくて在地領主たちによって起草されたものですが、このことによって相良氏 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>相良氏は源頼朝から人吉荘の地頭職を賜った、いわゆる下り衆で、戦国期には在地の小領主達の連合体の盟主という立場でした。<br />
<P><br />
有名な相良家法度は、相良氏ではなくて在地領主たちによって起草されたものですが、このことによって相良氏は実質的には戦国大名化し、頼房の父の相良義陽の代には、大隅、芦北、八代、天草にまで勢力圏を広げました。<br />
<P><br />
しかし、島津氏の攻勢の前に屈服し、相良氏は島津氏に従属することになります。<br />
<P><br />
その後、父が討ち死にすると相良頼房は島津に人質に出されますが、兄の死により、12歳で相良氏の家督を相続し、人吉城主となります。<br />
<P><br />
相良頼房は島津軍の中の1隊として大友領を攻撃していましたが、豊臣秀吉の九州征伐時にいち早く降服し、人吉を安堵されます。<br />
<P><br />
関ヶ原の戦いのときには相良頼房は当初、西軍に属して伏見城などを攻撃していましたが、関ヶ原での西軍敗戦直後に秋月種長らと大垣城内で寝返り、石田三成の妹婿の熊谷直盛らを殺害したため、徳川家康によって本領人吉を安堵され、初代人吉藩主となります。<br />
<P><br />
相良頼房は大坂夏の陣ののち、相良氏初代の長毎の名をとって、相良長毎（ながつね）と名乗るようになります。<br />
<P><br />
九州の戦国大名の中で江戸時代にも本領を安堵されて生き残ったのは相良氏と島津氏、鍋島氏（龍造寺氏）、大村氏のみです。<br />
<P><br />
これには、相良頼房やその家臣たちの政治情勢認識の正しさと、戦国時代を生き抜く行動力の賜物でもあるのですが、何といっても、難攻不落の人吉城と相良家法度に結集した在地領主たちの結束が怖れられたからに他なりません。<br />
<P><br />
島津も豊臣も徳川も、大きな戦略の中で、人吉を無理攻めするよりも懐柔し従属させる道を選んだのでしょう。<br />
<P><br />
人吉こそ日本屈指の秘境であり、僻地であるのですが、表高23000石に対して実高53000石という実態こそ、相良氏の僻地ゆえの生き残り戦略をうかがわせるものではないでしょうか。</p>
<p><H3>相良頼房の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>天正2年(1574)　相良義陽の次男として生まれる<br />
<LI>天正9年(1581)　父・義陽が戦死。島津に人質として送られる<br />
<LI>天正13年(1585)　兄・忠房が急逝。12歳で家督相続<br />
<LI>天正15年(1586)　豊臣秀吉の九州征伐に際して降服。人吉領を安堵される。<br />
<LI>慶長5年(1600)　はじめ西軍に属し伏見城などを攻撃。関ヶ原の戦い直後に大垣城で内応。2万石の人吉藩初代藩主となる。<br />
<LI>寛永13年(1636)　死去。享年63<br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
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「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。
</td>
</tr>
</table>
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		<title>高橋紹運</title>
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		<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 07:11:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大友軍団]]></category>
		<category><![CDATA[高橋紹運]]></category>

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		<description><![CDATA[九州の守護大名大友義鑑の重臣の吉弘鑑理の次男　吉弘鎮理は、父親や兄とともに大友宗麟に仕え、各地で武功をあげます。

特に永禄10年の高橋鑑種、秋月種実、筑紫広門らの反乱に際して活躍し、大友軍の勝利の後、大友宗麟から高橋氏 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>九州の守護大名大友義鑑の重臣の吉弘鑑理の次男　吉弘鎮理は、父親や兄とともに大友宗麟に仕え、各地で武功をあげます。<br />
<P><br />
特に永禄10年の高橋鑑種、秋月種実、筑紫広門らの反乱に際して活躍し、大友軍の勝利の後、大友宗麟から高橋氏の名跡を継ぎ、岩屋城と宝満城を守ることを命じられます。この時から、高橋紹運と号していたようです。<br />
<P><br />
高橋紹運は立花道雪の配下として、たびたび筑前、筑後方面に出陣していましたが、耳川の戦いで大友軍が大敗すると、再び秋月氏や筑紫広門などが反旗を翻し、大友軍は筑前、筑後方面でも劣勢となります。<br />
<P><br />
そこで、立花道雪は一人娘の婿養子に高橋紹運の子統虎を迎えます。これが、戦国末期きっての名将とうたわれた立花宗茂です。そして、立花道雪、高橋紹運、立花宗茂の3人で、勢力を増してきた龍造寺隆信に対抗しました。<br />
<P><br />
その後、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると立花・高橋連合軍は攻勢に転じて、いったんは筑後の大部分を奪い返します。しかし、立花道雪が高良山の陣中で病死すると、島津軍は龍造寺などを従えて大友領に殺到します。<br />
<P><br />
このとき、高橋紹運は岩屋城に、立花宗茂は立花城に籠城します。<br />
<P><br />
立花宗茂は実父の高橋紹運に、要害堅固で軍勢も多い筑紫広門らが守る宝満城に移ることを求めますが、高橋紹運は、いつ裏切るかわからない筑紫広門と同じ城に籠城するのは得策ではないこと、たとえ岩屋城が落城しても、時間を稼ぐことができれば、豊臣秀吉がやってきて島津軍は敗北することを逆に立花宗茂に説きます。<br />
<P><br />
結局、高橋紹運は5万の島津軍に対して763名で岩屋城に立てこもります。<br />
天正14年7月14日に島津軍は総攻撃をかけますが、高橋紹運は降服勧告を断り、頑強に抵抗します。<br />
そして、7月27日高橋紹運らは玉砕しましたが、このときの島津側の戦死者は4500人と伝えられています。<br />
<P><br />
島津軍は岩屋城攻めにおける損害の大きさに立花城攻撃に躊躇します。<br />
その後、8月には豊臣秀吉の命で中国・四国方面の大名が豊後に上陸し、天正15年3月には秀吉自身が25万の大軍を率いて小倉に上陸するにおよんで、立花城は救われます。<br />
<P><br />
この時の功績によって立花宗茂は柳川城主として独立した大名に取り立てられます。<br />
従来より、このことは高橋紹運が自身が玉砕することによって実の息子の立花宗茂を救った美談として伝えられていますが、むしろ立花道雪や高橋紹運の優れた政治判断や戦局分析を評価すべきではないでしょうか。</p>
<p><H3>高橋紹運の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>天文17年(1548)　吉弘鑑理の次男として生まれる<br />
<LI>永禄10年(1567)　大友氏の家臣　高橋鑑種らが反乱<br />
<LI>永禄12年(1569)　毛利氏撤退により筑前、筑後の戦いは大友氏勝利で終わる。吉弘鎮理、高橋氏の名跡を継ぎ、高橋紹運と号し、岩屋城と宝満城を与えられる<br />
<LI>天正6年(1578)　耳川の戦いで大友軍大敗<br />
<LI>天正9年(1581)　高橋紹運の子統虎を立花道雪の婿養子とする（のちの立花宗茂）<br />
<LI>天正12年(1584)　沖田畷の戦いで龍造寺隆信 討死<br />
<LI>天正13年(1585)　立花道雪　病死<br />
<LI>天正14年(1586)　岩屋城を死守して討死。享年39<br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
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</td>
<td>
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「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。
</td>
</tr>
</table>
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		<title>立花道雪</title>
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		<pubDate>Sat, 12 Sep 2009 00:09:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大友軍団]]></category>
		<category><![CDATA[立花道雪]]></category>

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		<description><![CDATA[戸次氏は九州の名門守護大名である大友氏の分家です。
戸次鑑連（べっきあきつら）も大友氏の重臣として大友宗麟に仕えていました。

戸次鑑連はのちに滅亡した同じ大友一族の立花氏を継ぎ、のちに出家して道雪と名乗りました。
そこ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>戸次氏は九州の名門守護大名である大友氏の分家です。<br />
戸次鑑連（べっきあきつら）も大友氏の重臣として大友宗麟に仕えていました。<br />
<P><br />
戸次鑑連はのちに滅亡した同じ大友一族の立花氏を継ぎ、のちに出家して道雪と名乗りました。<br />
そこで、ここでは最初から戸次鑑連のことを立花道雪と表記します。<br />
<P><br />
立花道雪が活躍した時代は、九州の３代勢力であった少弐、大友、島津のうち、少弐氏が没落し、かわって山口の大内氏が来た九州に勢力を伸ばしてきておりました。<br />
<P><br />
立花道雪は幼い時に母親をなくし、継母（臼杵鑑速の姉）によって育てられます。<br />
若くして家督をついだ立花道雪は大友家に仕えますが、二階崩れの変で大友義鎮（のちの大友宗麟）を支持し、その後、大友宗麟の武将として、はなばなしい活躍をします。<br />
<P><br />
当初、立花道雪はおもに肥後の菊池氏を攻撃していましたが、菊池氏が滅びると、筑前、筑後方面で、毛利氏方の諸将と対峙しました。<br />
<P><br />
特に永禄10年から12年にかけては、毛利氏の援護をうけた秋月種実、高橋鑑種、筑紫広門、立花鑑載らと死闘を演じています。<br />
<P><br />
毛利氏撤退後、筑前方面の大友軍の総大将格として、名門の立花姓を賜り、立花山城主となります。その後、大友宗麟は戸次統連に立花氏の家督を譲るように求めましたが、その能力なしとして立花道雪は拒否します。<br />
<P><br />
彼は、実力のある重臣の薦野増時を養子にしようとしますが、断られたため、一人娘の誾千代に家督を譲り、立花山城の女城主とします。<br />
そして、のちに高橋紹運の子統虎を婿養子に迎えることになるのですが、彼が勇猛果敢な武将として有名な立花宗茂です。<br />
<P><br />
この一連の騒動の中で、立花道雪は立花の名跡と立花山城主は血筋ではなく、実力のあるものでなくてはならないという立場を貫き通します。<br />
立花山城主は筑前の要の城であり、貿易港博多を押さえるのにどうしても必要で、この城が大友家の命運を決めるということを、よく理解していたようです。<br />
<P><br />
しかし、耳川での大敗以降、大友氏は衰退し、北上する島津軍に対して、立花道雪と高橋紹運が筑後で大友氏を支えていましたが、73歳の立花道雪はついに高良山の陣中で病没します。<br />
<P><br />
立花道雪は死に際して「自分の死後、遺骸に甲冑を着せ、柳川の方に向けてこの地に埋めよ」と遺言したのは有名な話ですが、実際には養子の立花宗茂は立花山麓の梅岳寺に埋葬しています。<br />
<P><br />
武将としての立花道雪を見ると、肥後、筑前、筑後でほぼ毎年のように軍事行動をしております。<br />
これは、大友氏が貿易による利益を軍事面につぎ込んでいたからこそできたことでしょう。<br />
しかし、大友氏は、毛利、龍造寺、島津といった大大名たちの驚異にさらされ続けています。<br />
これは、二階崩れの変というクーデターの形で大友宗麟が全権を握ったために、大友氏が完全な形での戦国大名化できていなかったこと、大友宗麟の人物的な問題によって、家臣の離反が相次いだこと、大地震により港などに大きな被害がでたこと、などによるものです。<br />
<P><br />
また、軍事的にも、立花道雪は城攻めや、複数の山城を連携させて、敵の大軍を食い止めるのは得意でしたが、平地での会戦では、必ずしも大きな成果をあげているわけではありません。<br />
軍事技術面でも、立花道雪をはじめとする大友軍は毛利や島津に遅れをとっていたようです。<br />
<P><br />
その中で、立花道雪は部下の妻子に手をつけた大友宗麟を諫言し、立花山城主に自分の親戚ではなく高橋紹運の子を迎えるなど、一途に大友氏を支え続けます。<br />
このような生き方が、当時から現在に至るまで、立花道雪の人気が高い理由なのでしょうね。</p>
<p><H3>立花道雪の年賦</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>永正10年(1513)　豊後鎧岳城主戸次親家の子として生まれる<br />
<LI>大永6年(1526)　父の死により戸次氏の家督を相続<br />
<LI>天文19年(1550)　二階崩れの変で大友義鎮（のちの大友宗麟）を支持。肥後侵攻<br />
<LI>天文23年(1554)　肥後の菊池義武を滅ぼす<br />
<LI>弘治3年(1557)　秋月文種を滅ぼす<br />
<LI>永禄4年(1561)　加判衆に任じられる<br />
<LI>永禄10年(1567)　毛利氏に通じた秋月種実、高橋鑑種、筑紫広門、立花鑑載らと戦う<br />
<LI>永禄12年(1569)　毛利氏撤退により筑前、筑後の戦いは大友氏勝利で終わる<br />
<LI>元亀2年(1571)　立花姓を賜り、立花山城主<br />
<LI>天正3年(1575)　一人娘の誾千代に家督を譲り、立花山城主とする<br />
<LI>天正6年(1578)　耳川の戦いで大友軍大敗<br />
<LI>天正9年(1581)　高橋紹運の子統虎を婿養子に迎える（のちの立花宗茂）<br />
<LI>天正13年(1585)　高良山の陣中にて病死。享年73<br />
<LI><br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
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「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。
</td>
</tr>
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		<title>大友宗麟</title>
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		<pubDate>Tue, 01 Sep 2009 13:10:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大友軍団]]></category>
		<category><![CDATA[キリシタン大名]]></category>
		<category><![CDATA[大友宗麟]]></category>
		<category><![CDATA[守護大名]]></category>

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		<description><![CDATA[キリシタン大名として有名な大友宗麟（大友義鎮　おおともよししげ）は、鎌倉時代から続く名門大友氏の21代目の当主です。
大友宗麟が生まれた時代
大友氏は鎌倉時代には九州御家人の中の有力者として、室町時代には守護大名として権 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>キリシタン大名として有名な大友宗麟（大友義鎮　おおともよししげ）は、鎌倉時代から続く名門大友氏の21代目の当主です。</p>
<p><H3>大友宗麟が生まれた時代</H3></p>
<p>大友氏は鎌倉時代には九州御家人の中の有力者として、室町時代には守護大名として権勢をふるいました。<br />
<P><br />
守護大名としての大友氏は、少弐氏、島津氏とともに九州を３分する大勢力でしたが、山口の大内氏が北九州に進出するのに対抗していました。<br />
<P><br />
大友宗麟の生母は大内義興の娘と言われていますが、異説もあるようです。</p>
<p><H3>二階崩れの変</H3></p>
<p>父の大友義鑑は異母弟の塩市丸を寵愛し、大友宗麟を嫌い廃嫡を画策します。<br />
<P><br />
天文19年2月に父の大友義鑑は大友宗麟を湯治に行かせている間に宗麟一派を粛清しようとしますが、逆に宗麟派の重臣たちは決起し、2月10日に塩市丸とその生母を殺害し、その時の傷がもとで大友義鑑も12日は死去します（二階崩れの変）。これで大友宗麟は実権を握って当主となり、反対派を粛清しました。<br />
<P><br />
天文20年に大内義隆が陶晴賢の謀反で自害すると、大友宗麟は陶晴賢を助け、弟の大友晴英を大内家の新しい当主にします。これが大内義長ですが、これにより大友家は長年の念願であった貿易港博多を手中に収めます。<br />
<P><br />
この頃が大友宗麟の全盛期で、天文23年には肥後の名門　菊池氏を滅亡に追い込みます。</p>
<p><H3>毛利氏の台頭</H3></p>
<p>しかし、毛利元就が勢力を増して、大内義長が滅ぶと、毛利氏は北九州に進出してきます。<br />
大友宗麟は毛利派の秋月氏、筑紫氏を討ち、室町幕府に運動して、豊前・筑前の守護職と九州探題の地位を得るなど、軍事・外交の両面で手腕を発揮しました。<br />
この頃、毛利氏は山陰の尼子氏と対立しており、大友氏の領国は最大になります。<br />
<P><br />
ところが、毛利氏が尼子氏を打ち破った後は、毛利氏が再び北部九州の豪族に接近をはかります。<br />
この時は重臣の高橋鑑種が反旗を翻すなど、大友氏は当初劣勢でしたが、立花道雪などの活躍により、高橋鑑種の叛乱は鎮圧されました。<br />
<P><br />
大友宗麟は永禄5年にすでに出家していたのですが、この時期、毛利氏に対抗するためにキリシタン宣教師に接近し、火薬の原料である硝石の輸入などをしております。</p>
<p><H3>今山合戦</H3></p>
<p>大友宗麟は少弐氏を滅ぼして勢いに乗る龍造寺隆信を討とうとしますが、連携している毛利氏にけん制されます。<br />
それでも大友宗麟は大軍を弟の大友親貞に預けて龍造寺の居城　水ケ江城を包囲しますが、龍造寺軍の夜討ちに会い大敗し、大友親貞は討ち死にしてしまいます。<br />
この敗戦以降、大友軍は北の毛利氏、西の龍造寺氏、南の島津氏と３方面作戦を強いられることになり、徐々に力を落としていきます。<br />
<P><br />
天正5年には家臣たちの不満を和らげる狙いもあって、大友宗麟は家督を長男の大友義統に譲り、丹生島城へ隠居します。しかし、大友宗麟が完全に治世をコントロールしていたようです。</p>
<p><H3>耳川の戦い</H3></p>
<p>この機を狙って島津義久が日向へ侵攻しました。<br />
そこで、大友宗麟は大軍を率いて日向に向かいますが、耳川で大敗し、重臣の多くを失います。<br />
<P><br />
耳川での敗戦の原因に、直前に大友宗麟がキリシタンの洗礼を受けたことに対する家臣の反発をあげる人もいます。しかし、大友軍は山城攻略を得意としていましたが、今山合戦にしても耳川の戦いにしても、平地での大軍同士の合戦は元来、苦手のようです。<br />
<P><br />
これは、いつも３方面作戦を強いられているので、大軍での行動に慣れていないこと、大友宗麟自身がそれなりの軍略家なので、優秀な軍師をつけていなかった、鉄砲や大砲などに力を注いでいるものの、この時期は、それを完全に使いこなすには至っていなかったことがあげられます。<br />
<P><br />
大友宗麟は日向の国で神社仏閣を破壊し、キリシタンの王国にするというようなことを宣教師に言っておりますが、神社仏閣の破壊は新しい領地での大友家の支配力強化のためであり、家臣団に特にキリシタン改宗を命じていないことからも、ほんとうの信心というよりは、ヨーロッパ勢力へ接近して、貿易と軍事の両面で利益を得ることが、大友宗麟の本来の目的と思われます。<br />
<P><br />
耳川の戦い以降、筑後の諸将は龍造寺隆信に従うようになりますが、天正12年には沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち取られてしまいます。<br />
この機に、大友軍は筑後に侵攻しますが、その無理がたたってか、大友宗麟を支えた立花道雪が病死してしまいます。</p>
<p><H3>島津の北上と豊臣秀吉の九州征伐</H3></p>
<p>その後、島津軍は北上を続けて大友領を蹂躙していきます。<br />
大友宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請し、天正14年には、その要請にこたえて長宗我部元親らが九州に上陸しますが、戸次川の戦いで島津軍に破れ、豊後国府を占領されてしまいます。<br />
そこで、大友宗麟は国崩しと言われる大砲とともに丹生島城に籠城します。<br />
<P><br />
翌年、豊臣秀吉は20万以上の大軍で九州に侵攻し、各地で島津軍を打ち破ります。<br />
これにより大友家は滅亡を免れますが、大友宗麟は島津氏の降伏の直前に病死しました。<br />
<P><br />
大友宗麟の長男の大友義統は秀吉から豊後１国を安堵されますが、凡庸で、キリシタン禁令にもかかわらずキリシタンに改宗したり、朝鮮征伐でもミスを犯し、結局、改易となり、大名としての大友家は断絶しました。</p>
<p><H3>大友義鎮（宗麟）の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>享禄3年(1530)　大友家第20代当主　大友義鑑の嫡男として生まれる。<br />
<LI>天文19年(1550)　二階崩れの変。大友義鑑死去。大友義鎮、大友家第21代当主となる。<br />
<LI>天文20年(1551)　陶晴賢の乱で大内義隆　自害。<br />
<LI>天文22年(1553)　家臣の一萬田鑑相　謀反。<br />
<LI>天文23年(1554)　菊池氏を滅ぼす。<br />
<LI>弘治元年(1555)　陶晴賢　厳島の戦いで毛利元就に破れ自害。<br />
<LI>弘治2年(1556)   家臣の小原鑑元 謀反。<br />
<LI>弘治3年(1557)　毛利元就　大内義長を滅ぼす。大友宗麟、秋月氏、筑紫氏を攻略。<br />
<LI>永禄2年(1559)　大友宗麟　九州探題に補せられる。<br />
<LI>永禄5年(1562)  出家し休庵宗麟と号す。<br />
<LI>永禄10年(1567)　重臣の高橋鑑種　叛乱。<br />
<LI>元亀元年(1570)　今山の戦いで大友軍、龍造寺隆信に大敗し、大友親貞　討ち死に。<br />
<LI>天正5年(1577)　家督を大友義統に譲り、丹生島城へ隠居。<br />
<LI>天正6年(1578)　耳川の戦いで島津軍に大敗。<br />
<LI>天正14年(1586)　戸次川の戦いで島津軍に敗退、島津軍　豊後国府を占領。<br />
<LI>天正15年(1587)　豊臣秀吉の九州征伐。大友宗麟　病死。<br />
<LI><br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank">人物文庫 立花道雪</A><br />
「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。 </p>
</td>
</tr>
</table>
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		<item>
		<title>秋月文種・秋月種実</title>
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		<pubDate>Sat, 22 Aug 2009 11:48:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[秋月城]]></category>
		<category><![CDATA[秋月文種]]></category>
		<category><![CDATA[秋月氏]]></category>
		<category><![CDATA[秋月種実]]></category>

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		<description><![CDATA[秋月文種は九州の名族秋月氏の生まれで、今でも桜の名所として有名な秋月城の城主でした。

秋月の地は大内氏と大友氏の2大勢力にはさまれており、秋月文種は大内氏に属しながらも大内氏と大友氏との和睦に力を注いでおりました。

 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>秋月文種は九州の名族秋月氏の生まれで、今でも桜の名所として有名な秋月城の城主でした。<br />
<br />
秋月の地は大内氏と大友氏の2大勢力にはさまれており、秋月文種は大内氏に属しながらも大内氏と大友氏との和睦に力を注いでおりました。<br />
<br />
陶晴賢の謀反により大内義隆が自害し、大内氏の勢力が北部九州から撤退すると、秋月文種は大友宗麟に鞍替えします。<br />
<br />
ところが、陶晴賢を討った毛利元就が北部九州に進出してくると、秋月文種はすぐに毛利氏に内応しました。<br />
結果的にこれが秋月氏の命取りになります。<br />
<br />
秋月文種の内応に激怒した大友宗麟は立花道雪らに２万の大軍を預けて秋月城を攻撃させます。<br />
<br />
秋月城では支えられないと考えた秋月文種は古処山城に逃れますが、結局、嫡男晴種とともに、城中で自刃しました。<br />
<br />
これで秋月氏は所領を失いますが、晴種以外の子供たちは古処山城から脱出します。<br />
<br />
その後、永禄2年に息子の秋月種実は旧臣の深美美濃守の助けで古処山城を奪還しました。<br />
そして、秋月種実は旧領をほとんど回復します。<br />
<br />
秋月種実は毛利氏の九州における尖兵として大友軍を悩ましますが、多々良浜の戦いで毛利軍が敗れると大友側に降伏しました。<br />
<br />
耳川の戦いで大友軍が敗北すると、秋月種実は龍造寺隆信や筑紫広門らと同盟を結びますが、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にした後は、島津氏に接近し、大友側の諸城を攻略し、36万石の大名にまで成長しました。<br />
<br />
しかし、秀吉の九州征伐時に島津側だったため、秀吉によって所領を没収されます。<br />
ですが、秋月種実は楢柴の茶入れを差し出したため許されて、日向高鍋３万石に移封され、秋月藩は明治まで日向高鍋で生き延びます。<br />
<br />
戦国時代の有力大名に翻弄され続け、致命的なミスを2回も犯した秋月氏でしたが、渡来人系大蔵氏の後裔という、九州きっての名門ゆえか、秋月文種、秋月種実父子の努力の甲斐あってか、九州内で明治まで存続できたのは特筆に値すると思いますね。</p>
<p><HR></p>
<p><H3>秋月文種の年賦</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>永正9年（1512）　秋月種時の嫡男として生まれる<br />
<LI>享禄4年（1531）　秋月文種　家督相続<br />
<LI>天文17年（1548）　秋月種実、秋月文種の次男として生まれる<br />
<LI>天文20年（1551）　陶晴賢の謀反により大内義隆が自害。秋月文種は大友宗麟配下となる<br />
<LI>弘治3年（1557）　秋月文種、毛利元就に呼応して大友宗麟に反旗を翻す。大友軍に攻められ秋月文種、古処山城で自刃。秋月種実は脱出<br />
<LI>永禄2年（1559）　秋月種実、毛利元就や旧臣深江美濃守の支援を得て旧領を奪還<br />
<LI>永禄10年（1567）　秋月種実、休松の戦いにて大友軍を撃破<br />
<LI>永禄12年（1569）　多々良浜の戦いで毛利軍敗退<br />
<LI>天正6年（1578）　耳川の戦いで大友軍敗走<br />
<LI>天正12年（1584）　龍造寺隆信が沖田畷の戦いで討ち死に<br />
<LI>天正13年（1586）　秋月種実、島津軍とともに岩屋城を攻撃<br />
<LI>天正14年（1587）　秋月種実、秀吉の九州征伐軍に敗北し降伏。日向高鍋3万石に移封<br />
<LI>慶長元年（1596）　秋月種実、日向高鍋で死去。享年49<br />
<LI><br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6141321%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13243081%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f8741%2f87415739.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f8741%2f87415739.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6141321%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13243081%2f" target="_blank">筑前戦国史増補改訂版</A><br />
大友、毛利の攻防<br />
毛利の筑前撤退と大友の博多支配<br />
大友、龍造寺の戦い<br />
筑前の展望<br />
大友の衰退、筑前各地の戦い<br />
立花宗茂の登場と養父道雪の死<br />
島津の北進<br />
岩屋城の戦い<br />
九州の夜明け<br />
筑前諸家の離散 </p>
</td>
</tr>
</table>
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		<title>筑紫広門</title>
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		<pubDate>Sat, 22 Aug 2009 00:02:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[筑紫広門]]></category>

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		<description><![CDATA[筑紫氏は小弐氏配下の小大名で、筑後上妻郡や肥前基肄郡、養父郡の一部を領するだけでした。

小弐氏没落後は、大内、大友、島津、後には龍造寺の大大名のちょうど勢力が拮抗する地域であることをたくみに利用して、筑紫広門は戦国の世 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>筑紫氏は小弐氏配下の小大名で、筑後上妻郡や肥前基肄郡、養父郡の一部を領するだけでした。<br />
<P><br />
小弐氏没落後は、大内、大友、島津、後には龍造寺の大大名のちょうど勢力が拮抗する地域であることをたくみに利用して、筑紫広門は戦国の世を綱渡りのように渡り歩きます。<br />
<P><br />
筑紫惟門の晩年には筑紫氏は大友氏に属しており、筑紫広門も家督相続直後は大友氏の配下となります。<br />
<P><br />
耳川の戦いで大友氏が敗北すると、秋月種実とともに高橋紹運の岩屋城を攻撃します。<br />
岩屋城はついに落ちなかったのですが、7年後に筑紫広門は高橋紹運が遠征している隙に居城の宝満城を落とします。<br />
<P><br />
ところが、豊臣秀吉が中央で力を持ったことを知った筑紫広門は、翌年、秋月種実と離反して、高橋紹運と和解し、娘と高橋紹運の息子との婚姻を成立されます。これは、いずれ秀吉の大軍が九州に来ることを察知した筑紫広門が、島津・龍造寺・秋月連合軍でも秀吉には勝てないと踏んで、当時、秀吉と結んでいた大友氏側に鞍替えしたものです。<br />
<P><br />
当時の九州の軍事情勢は圧倒的に島津側有利で、大友氏は滅亡の危機に瀕するような状態であったのにもかかわらず、豊臣・大友連合軍側を選んだ筑紫広門の先見の明には、感服します。<br />
<P><br />
しかし、島津・龍造寺・秋月連合軍の攻撃にあって息子が討ち死にすると、筑紫広門は降伏し、筑後の大善寺に幽閉されます。<br />
<P><br />
このときに筑紫広門が詠んだのが下記の和歌です。</p>
<pre>
忍ぶれば
　　　いつか世に出ん
　　　　　　折やある
　　　　　　　　奥まで照らせ
　　　　　　　　　　　山のはの月
</pre>
<p><P><br />
その後、秀吉の大軍が九州に上陸すると筑紫広門は大善寺から逃げ出し、軍を立て直して五ケ山城を奪回します。<br />
<P><br />
これにより、筑紫広門は筑後上妻郡18000石を安堵されました。<br />
<P><br />
ところが、歴戦の筑紫広門も関が原の戦いで西軍についたために、筑紫家は改易となり、広門自身は剃髪して、加藤清正や細川家を頼りましたが、大名として復活することはできませんでした。<br />
<P><br />
なお、息子の代に筑紫家は3000石の旗本として復活しています。</p>
<p><H3>筑紫広門の年賦</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>弘治2年(1556)  筑紫惟門の子として生まれる<br />
<LI>天正6年(1578)  耳川の戦い<br />
<LI>天正7年(1579)　高橋紹運の岩屋城を攻撃<br />
<LI>天正12年(1584)　高橋紹運の岩屋城を攻撃<br />
<LI>天正13年(1585)　高橋紹運の宝満城を落とす<br />
<LI>天正14年(1586)　娘を高橋紹運の次男・高橋統増に嫁がせる。嫡男　筑紫晴門討ち死に。筑紫広門　降伏し大善寺に幽閉される<br />
<LI>天正15年(1587)　秀吉の20万の大軍、九州上陸。筑紫広門、五ケ山城奪還<br />
<LI>慶長5年(1600)　関が原の戦い。筑紫広門改易。<br />
<LI>元和9年(1623)　筑紫広門逝去。享年68<br />
</UL><br />
<HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0aa4569b.1949d312.0aa4569c.a9524c10/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fshockprice%2f179832d%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fshockprice%2fi%2f10003273%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fshockprice%2fcabinet%2fdvd000%2fimg55822110.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fshockprice%2fcabinet%2fdvd000%2fimg55822110.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0aa4569b.1949d312.0aa4569c.a9524c10/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fshockprice%2f179832d%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fshockprice%2fi%2f10003273%2f" target="_blank">いま蘇る戦国絵巻　ＤＶＤ全20巻セット</A><br />
下克上の名のもとに、数々の英雄。たちが群雄割拠した動乱の時代。貴重な資料とビジュアルで蘇るＤＶＤ戦国歴史絵巻。<br />
DISC-1:信長　天下布武への道(48分)<br />
DISC-2:秀吉Ｉ　出世街道(45分)<br />
DISC-3:秀吉ＩＩ　天下取り(38分)<br />
DISC-4:秀吉ＩＩＩ　天下人の居城(38分)<br />
DISC-5:秀吉ＩＶ　豊臣大名の城 1(38分)<br />
DISC-6:秀吉Ｖ　豊臣大名の城 2(38分)<br />
DISC-7:家康Ｉ　天下統一への布石(43分)<br />
DISC-8:家康ＩＩ　大坂城包囲網(36分)<br />
DISC-9:家康ＩＩＩ　名築城家の城(37分)<br />
DISC-10:家康ＩＶ　天下平定(34分)<br />
DISC-11:みちのくの城と合戦(48分)<br />
DISC-12:関東の城と合戦(46分)<br />
DISC-13:謙信と信玄の城と合戦(46分)<br />
DISC-14:京をめぐる諸城郭(40分)<br />
DISC-15:中国の群雄の城(46分)<br />
DISC-16:四国・九州の巨大城郭(44分)<br />
DISC-17:琉球王国の城(36分)<br />
DISC-18:城郭の歴史(41分)<br />
DISC-19:城郭の構造(40分)<br />
DISC-20:城と生活・合戦(40分)</p>
</td>
</tr>
</table>
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		<title>有馬晴信</title>
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		<pubDate>Thu, 20 Aug 2009 22:35:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[有馬晴信]]></category>

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		<description><![CDATA[戦国時代に島原半島全域を勢力範囲にしていた有馬氏ですが、キリシタン大名として有名な有馬晴信が家督を継いだ頃には、東の龍造寺隆信に服属するようになっていました。

そこで、有馬晴信は、叔父の大村純忠とともに、有馬・大村連合 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>戦国時代に島原半島全域を勢力範囲にしていた有馬氏ですが、キリシタン大名として有名な有馬晴信が家督を継いだ頃には、東の龍造寺隆信に服属するようになっていました。<br />
<P><br />
そこで、有馬晴信は、叔父の大村純忠とともに、有馬・大村連合を作り上げます。<br />
<P><br />
しかし、龍造寺隆信の勢力はさらに増大して、大村純忠は龍造寺隆信側につき、有馬晴信も息子３人を人質にとられます。<br />
<P><br />
このような状況下で、有馬晴信は龍造寺隆信から離反し、島津氏の支援を受けるという大きな決断をしました。<br />
<P><br />
その結果、起きたのが沖田畷の戦いです。この戦いでは、有馬晴信の巧みな戦術で龍造寺隆信を討ち死にさせ、有馬氏は独立した戦国大名に復活しました。<br />
<P><br />
その後、有馬晴信は領内の神社仏閣を破壊し、キリシタンを保護します。<br />
<P><br />
豊臣秀吉の九州征伐の時には、島津から豊臣方に寝返ります。また、関が原の戦いでは、西軍に属しながら、東軍とも連絡を取り合い、小西行長の居城の宇土城を攻撃したことから、領国を安堵されています。<br />
<P><br />
しかし、キリシタン追放令が出てからもキリシタンを保護したため、徳川家康からは警戒されていました。有馬晴信は岡本大八事件に連座して、甲斐に流され、切腹を命ぜられます。しかし、キリシタンの彼は自殺を拒み、斬首を願い、刑に服しました。<br />
<P><br />
その後、有馬晴信の子、直純は日向延岡に移封されます。</p>
<p><H3>有馬晴信の年賦</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>永禄10年（1567） 有馬義貞の子として生まれる<br />
<LI>元亀2年(1571)　家督相続<br />
<LI>天正12年(1584)　沖田畷の合戦で龍造寺隆信　討ち死に<br />
<LI>天正15年(1587)　豊臣秀吉の九州征伐<br />
<LI>慶長5年(1600)　関が原の戦いで、当初西軍、のちに小西行長の居城宇土城を攻撃<br />
<LI>慶長14年(1609)　マーデレ・デ・デウス号事件（ポルトガル船爆破）、有馬晴信、岡本大八に騙され賄賂を贈る（岡本大八事件）、甲斐国初鹿野に追放<br />
<LI>慶長17年(1612)　斬首（切腹説もある）<br />
</UL><br />
<HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/02215160.29bc53c2.0448825f.42d89431/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f1445385%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f11062798%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f8355%2f83553686.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f8355%2f83553686.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/02215160.29bc53c2.0448825f.42d89431/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f1445385%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f11062798%2f" target="_blank">有馬晴信　抄録</A><br />
第１章　謎を秘めた古代人のふる里<br />
第２章　有馬家十四代の治世四〇〇年の歩み<br />
第３章　十三代・有馬晴信、栄光と哀愁のクルスの丘<br />
第４章　島原の乱と乱後の有馬<br />
第５章　北有馬町の宝物一覧（史跡・遺跡・文化財） </p>
</td>
</tr>
</table>
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