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	<title>インターネット歴史事典 &#187; 四国の戦国大名</title>
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	<description>日本や世界の歴史上の人物や出来事をご紹介しております。</description>
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		<title>長宗我部元親</title>
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		<pubDate>Thu, 01 Oct 2009 11:40:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[四国の戦国大名]]></category>

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		<description><![CDATA[長宗我部氏は渡来人の秦氏の系列で、長宗我部元親は20代目の当主といわれています。
長宗我部氏は土佐の長岡郡宗部郷の在地領主で13-14世紀にすでに岡豊城を築城しているようです。

幼少のころは長身、色白でおとなしく、「姫 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>長宗我部氏は渡来人の秦氏の系列で、長宗我部元親は20代目の当主といわれています。<br />
長宗我部氏は土佐の長岡郡宗部郷の在地領主で13-14世紀にすでに岡豊城を築城しているようです。<br />
<P><br />
幼少のころは長身、色白でおとなしく、「姫若子」と言われていたようです。<br />
それで、初陣も22歳と当時としては非常に遅いのですが、その年に父の国親の急死によって家督を相続します。<br />
<P><br />
当初、長宗我部元親は公家大名の一条氏と共同戦線を張って、本山氏、安芸氏、津野氏などの周辺の豪族を従えていきます。<br />
<P><br />
一条氏の当主の早世が続いて一条氏の力が衰えると、天正2年には一条兼定を追放し、翌年、再起をはかる一条兼定を四万十川の戦いで破り、土佐をほぼ制圧しました。<br />
<P><br />
さらに、長宗我部元親は織田信長と結んで讃岐や阿波の三好一党を攻撃し、天正8年には両国をほぼ手中にします。<br />
<P><br />
しかし、天下統一を目指す織田信長と対立し、織田信長は息子の神戸信孝を総大将とした四国征伐軍を組織しますが、本能寺の変の後、十河存保を中富川の戦いで破って、讃岐と阿波の支配権を確立します。<br />
<P><br />
この間、長弟の親貞に吉良氏に、次弟の親泰に香宗我部氏に、三男の親忠を津野氏に、次男の親和を香川氏に送り込み、長宗我部一族による支配体制を固めていきます。<br />
<P><br />
四国統一を悲願とする長宗我部元親は羽柴（豊臣）秀吉とも対立し、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家と、小牧・長久手の戦いでも織田信雄や徳川家康と結んで秀吉に対抗し、秀吉の命で四国に侵攻した仙石秀久を破っています。<br />
<P><br />
天正13年、ようやく長宗我部元親は伊予も平定し四国統一を成し遂げますが、時すでに遅く、10万を超える秀吉軍の前に屈伏させられ、土佐１国のみ安堵されます。<br />
<P><br />
翌年、長宗我部元親は宿敵であった仙石秀久や十河存保とともに秀吉の九州征伐の先鋒として豊後に向かいますが、長宗我部元親や十河存保の反対を押し切った軍監　仙石秀久の命で12月に豊後　鶴賀城の救援に向かいます。<br />
仙石秀久は無謀にも戸次川の渡河作戦を決行し、島津の釣り野伏せの前に大敗し、元親の長男　長宗我部信親や十河存保が討死します。<br />
<P><br />
四国統一の悲願実現から2週間ほどで秀吉に夢を断たれ、そして長男　信親を失った長宗我部元親は失意のどん底に落ちます。<br />
また、多大な犠牲を払った家臣団も、結局のところ土佐１国のみとなってしまったことに、元親への忠誠心が薄らいでいきます。<br />
<P><br />
ここで、長宗我部元親は一門の比江山親興、吉良親実などの反対派を粛清し、四男盛親への家督相続を強行し、長宗我部家臣団の結束をはかろうとしました。<br />
<P><br />
その後、長宗我部元親は小田原征伐、朝鮮出兵にも出陣しますが、豊臣秀吉からは信頼されることはなかったようです。<br />
秀吉の死後は徳川家康に接近し、豊臣家に近い三男の津野親忠を幽閉したりしましたが、慶長4年　上洛後、病を得て亡くなります。<br />
<P><br />
長宗我部元親のあとを継いだ長宗我部盛親は関ヶ原の戦い当初、東軍に与するはずでしたが、長束正家に説得されて西軍に参戦してしまいます。長宗我部盛親は東軍方の城を落としながら関ヶ原に参陣しますが、毛利氏などどともに実際の戦闘には参加していません。<br />
<P><br />
関ヶ原の戦いの後、長宗我部盛親は軍を率いて土佐に戻りますが、長宗我部元親以来の野望を恐れた徳川家康は長宗我部を改易とし、領土を没収してしまいます。<br />
島津や毛利、上杉、鍋島など西軍に与した大大名の多くが滅亡を免れたのにもかかわらず、長宗我部氏が改易させられたのは、信親の戦死以降の長宗我部家内での内紛を見て、徹底抗戦するだけの力なし、と見なされたのでしょうか。<br />
<P><br />
浪人した長宗我部盛親は大坂冬の陣と夏の陣に、ともに豊臣方として参戦します。特に大坂夏の陣の八尾・若江の戦いでは、藤堂高虎勢を打ち破るなど、長宗我部氏の武勇を見せつけますが、豊臣方は全体としての統制がとれておらず破れてしまいます。長宗我部盛親は逃走中に京で捕えれ斬首され、ここに21代を誇った長宗我部氏は滅亡しました。<br />
<P><br />
九州統一を目指した島津氏が幕末まで薩摩・大隅の本領を維持したのに対して、四国統一を目指した長宗我部氏の滅亡は、家臣団の結束がいかに大事かを後世に伝えてくれるようです。<br />
<P><br />
余談ですが、明治維新を推進した薩長土肥の中に坂本竜馬の土佐藩が入っているのは、長宗我部氏以来の反骨精神、反徳川の風土が山内一豊以来の土佐藩にも引き継がれていたからでしょうか。</p>
<p><P></p>
<p><H3>長宗我部元親の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>天文8年(1539)　長宗我部国親の長男として生まれる<br />
<LI>永禄3年(1560)　国親の急死により家督相続<br />
<LI>永禄12年(1569)　八流の戦いで安芸氏を滅ぼす<br />
<LI>天正2年(1574)　一条兼定を追放して土佐を制圧<br />
<LI>天正8年(1580)　阿波、讃岐両国をほぼ平定<br />
<LI>天正10年(1582)　神戸(織田）信孝を総大将とした四国征伐軍が編成される。本能寺の変。中富川の戦いで十河存保を破る<br />
<LI>天正12年(1584)　秀吉配下の仙石秀久を引田の戦いで破る<br />
<LI>天正13年(1585)　四国全土を平定。羽柴秀長10万の大軍で四国侵攻。長宗我部元親は降伏し、土佐１国のみ安堵される。<br />
<LI>天正14年(1586)　仙石秀久、十河存保らと秀吉の九州征伐の先鋒として出陣し、戸次川の戦いで大敗。息子　信親　討死<br />
<LI>天正16年(1588)　一門の比江山親興、吉良親実などを粛清し、四男盛親への家督相続を強行<br />
<LI>慶長4年(1599)　病死　享年61<br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
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「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
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多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。
</td>
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