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	<title>インターネット歴史事典 &#187; 大友軍団</title>
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	<description>日本や世界の歴史上の人物や出来事をご紹介しております。</description>
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		<title>高橋紹運</title>
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		<pubDate>Tue, 22 Sep 2009 07:11:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大友軍団]]></category>
		<category><![CDATA[高橋紹運]]></category>

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		<description><![CDATA[九州の守護大名大友義鑑の重臣の吉弘鑑理の次男　吉弘鎮理は、父親や兄とともに大友宗麟に仕え、各地で武功をあげます。

特に永禄10年の高橋鑑種、秋月種実、筑紫広門らの反乱に際して活躍し、大友軍の勝利の後、大友宗麟から高橋氏 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>九州の守護大名大友義鑑の重臣の吉弘鑑理の次男　吉弘鎮理は、父親や兄とともに大友宗麟に仕え、各地で武功をあげます。<br />
<P><br />
特に永禄10年の高橋鑑種、秋月種実、筑紫広門らの反乱に際して活躍し、大友軍の勝利の後、大友宗麟から高橋氏の名跡を継ぎ、岩屋城と宝満城を守ることを命じられます。この時から、高橋紹運と号していたようです。<br />
<P><br />
高橋紹運は立花道雪の配下として、たびたび筑前、筑後方面に出陣していましたが、耳川の戦いで大友軍が大敗すると、再び秋月氏や筑紫広門などが反旗を翻し、大友軍は筑前、筑後方面でも劣勢となります。<br />
<P><br />
そこで、立花道雪は一人娘の婿養子に高橋紹運の子統虎を迎えます。これが、戦国末期きっての名将とうたわれた立花宗茂です。そして、立花道雪、高橋紹運、立花宗茂の3人で、勢力を増してきた龍造寺隆信に対抗しました。<br />
<P><br />
その後、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死すると立花・高橋連合軍は攻勢に転じて、いったんは筑後の大部分を奪い返します。しかし、立花道雪が高良山の陣中で病死すると、島津軍は龍造寺などを従えて大友領に殺到します。<br />
<P><br />
このとき、高橋紹運は岩屋城に、立花宗茂は立花城に籠城します。<br />
<P><br />
立花宗茂は実父の高橋紹運に、要害堅固で軍勢も多い筑紫広門らが守る宝満城に移ることを求めますが、高橋紹運は、いつ裏切るかわからない筑紫広門と同じ城に籠城するのは得策ではないこと、たとえ岩屋城が落城しても、時間を稼ぐことができれば、豊臣秀吉がやってきて島津軍は敗北することを逆に立花宗茂に説きます。<br />
<P><br />
結局、高橋紹運は5万の島津軍に対して763名で岩屋城に立てこもります。<br />
天正14年7月14日に島津軍は総攻撃をかけますが、高橋紹運は降服勧告を断り、頑強に抵抗します。<br />
そして、7月27日高橋紹運らは玉砕しましたが、このときの島津側の戦死者は4500人と伝えられています。<br />
<P><br />
島津軍は岩屋城攻めにおける損害の大きさに立花城攻撃に躊躇します。<br />
その後、8月には豊臣秀吉の命で中国・四国方面の大名が豊後に上陸し、天正15年3月には秀吉自身が25万の大軍を率いて小倉に上陸するにおよんで、立花城は救われます。<br />
<P><br />
この時の功績によって立花宗茂は柳川城主として独立した大名に取り立てられます。<br />
従来より、このことは高橋紹運が自身が玉砕することによって実の息子の立花宗茂を救った美談として伝えられていますが、むしろ立花道雪や高橋紹運の優れた政治判断や戦局分析を評価すべきではないでしょうか。</p>
<p><H3>高橋紹運の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>天文17年(1548)　吉弘鑑理の次男として生まれる<br />
<LI>永禄10年(1567)　大友氏の家臣　高橋鑑種らが反乱<br />
<LI>永禄12年(1569)　毛利氏撤退により筑前、筑後の戦いは大友氏勝利で終わる。吉弘鎮理、高橋氏の名跡を継ぎ、高橋紹運と号し、岩屋城と宝満城を与えられる<br />
<LI>天正6年(1578)　耳川の戦いで大友軍大敗<br />
<LI>天正9年(1581)　高橋紹運の子統虎を立花道雪の婿養子とする（のちの立花宗茂）<br />
<LI>天正12年(1584)　沖田畷の戦いで龍造寺隆信 討死<br />
<LI>天正13年(1585)　立花道雪　病死<br />
<LI>天正14年(1586)　岩屋城を死守して討死。享年39<br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank">人物文庫 立花道雪</A><br />
「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。
</td>
</tr>
</table>
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		<title>立花道雪</title>
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		<pubDate>Sat, 12 Sep 2009 00:09:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大友軍団]]></category>
		<category><![CDATA[立花道雪]]></category>

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		<description><![CDATA[戸次氏は九州の名門守護大名である大友氏の分家です。
戸次鑑連（べっきあきつら）も大友氏の重臣として大友宗麟に仕えていました。

戸次鑑連はのちに滅亡した同じ大友一族の立花氏を継ぎ、のちに出家して道雪と名乗りました。
そこ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>戸次氏は九州の名門守護大名である大友氏の分家です。<br />
戸次鑑連（べっきあきつら）も大友氏の重臣として大友宗麟に仕えていました。<br />
<P><br />
戸次鑑連はのちに滅亡した同じ大友一族の立花氏を継ぎ、のちに出家して道雪と名乗りました。<br />
そこで、ここでは最初から戸次鑑連のことを立花道雪と表記します。<br />
<P><br />
立花道雪が活躍した時代は、九州の３代勢力であった少弐、大友、島津のうち、少弐氏が没落し、かわって山口の大内氏が来た九州に勢力を伸ばしてきておりました。<br />
<P><br />
立花道雪は幼い時に母親をなくし、継母（臼杵鑑速の姉）によって育てられます。<br />
若くして家督をついだ立花道雪は大友家に仕えますが、二階崩れの変で大友義鎮（のちの大友宗麟）を支持し、その後、大友宗麟の武将として、はなばなしい活躍をします。<br />
<P><br />
当初、立花道雪はおもに肥後の菊池氏を攻撃していましたが、菊池氏が滅びると、筑前、筑後方面で、毛利氏方の諸将と対峙しました。<br />
<P><br />
特に永禄10年から12年にかけては、毛利氏の援護をうけた秋月種実、高橋鑑種、筑紫広門、立花鑑載らと死闘を演じています。<br />
<P><br />
毛利氏撤退後、筑前方面の大友軍の総大将格として、名門の立花姓を賜り、立花山城主となります。その後、大友宗麟は戸次統連に立花氏の家督を譲るように求めましたが、その能力なしとして立花道雪は拒否します。<br />
<P><br />
彼は、実力のある重臣の薦野増時を養子にしようとしますが、断られたため、一人娘の誾千代に家督を譲り、立花山城の女城主とします。<br />
そして、のちに高橋紹運の子統虎を婿養子に迎えることになるのですが、彼が勇猛果敢な武将として有名な立花宗茂です。<br />
<P><br />
この一連の騒動の中で、立花道雪は立花の名跡と立花山城主は血筋ではなく、実力のあるものでなくてはならないという立場を貫き通します。<br />
立花山城主は筑前の要の城であり、貿易港博多を押さえるのにどうしても必要で、この城が大友家の命運を決めるということを、よく理解していたようです。<br />
<P><br />
しかし、耳川での大敗以降、大友氏は衰退し、北上する島津軍に対して、立花道雪と高橋紹運が筑後で大友氏を支えていましたが、73歳の立花道雪はついに高良山の陣中で病没します。<br />
<P><br />
立花道雪は死に際して「自分の死後、遺骸に甲冑を着せ、柳川の方に向けてこの地に埋めよ」と遺言したのは有名な話ですが、実際には養子の立花宗茂は立花山麓の梅岳寺に埋葬しています。<br />
<P><br />
武将としての立花道雪を見ると、肥後、筑前、筑後でほぼ毎年のように軍事行動をしております。<br />
これは、大友氏が貿易による利益を軍事面につぎ込んでいたからこそできたことでしょう。<br />
しかし、大友氏は、毛利、龍造寺、島津といった大大名たちの驚異にさらされ続けています。<br />
これは、二階崩れの変というクーデターの形で大友宗麟が全権を握ったために、大友氏が完全な形での戦国大名化できていなかったこと、大友宗麟の人物的な問題によって、家臣の離反が相次いだこと、大地震により港などに大きな被害がでたこと、などによるものです。<br />
<P><br />
また、軍事的にも、立花道雪は城攻めや、複数の山城を連携させて、敵の大軍を食い止めるのは得意でしたが、平地での会戦では、必ずしも大きな成果をあげているわけではありません。<br />
軍事技術面でも、立花道雪をはじめとする大友軍は毛利や島津に遅れをとっていたようです。<br />
<P><br />
その中で、立花道雪は部下の妻子に手をつけた大友宗麟を諫言し、立花山城主に自分の親戚ではなく高橋紹運の子を迎えるなど、一途に大友氏を支え続けます。<br />
このような生き方が、当時から現在に至るまで、立花道雪の人気が高い理由なのでしょうね。</p>
<p><H3>立花道雪の年賦</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>永正10年(1513)　豊後鎧岳城主戸次親家の子として生まれる<br />
<LI>大永6年(1526)　父の死により戸次氏の家督を相続<br />
<LI>天文19年(1550)　二階崩れの変で大友義鎮（のちの大友宗麟）を支持。肥後侵攻<br />
<LI>天文23年(1554)　肥後の菊池義武を滅ぼす<br />
<LI>弘治3年(1557)　秋月文種を滅ぼす<br />
<LI>永禄4年(1561)　加判衆に任じられる<br />
<LI>永禄10年(1567)　毛利氏に通じた秋月種実、高橋鑑種、筑紫広門、立花鑑載らと戦う<br />
<LI>永禄12年(1569)　毛利氏撤退により筑前、筑後の戦いは大友氏勝利で終わる<br />
<LI>元亀2年(1571)　立花姓を賜り、立花山城主<br />
<LI>天正3年(1575)　一人娘の誾千代に家督を譲り、立花山城主とする<br />
<LI>天正6年(1578)　耳川の戦いで大友軍大敗<br />
<LI>天正9年(1581)　高橋紹運の子統虎を婿養子に迎える（のちの立花宗茂）<br />
<LI>天正13年(1585)　高良山の陣中にて病死。享年73<br />
<LI><br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
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「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。
</td>
</tr>
</table>
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		<title>大友宗麟</title>
		<link>http://jiten8.biz/history/sengoku/ootomo/sourin.html</link>
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		<pubDate>Tue, 01 Sep 2009 13:10:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大友軍団]]></category>
		<category><![CDATA[キリシタン大名]]></category>
		<category><![CDATA[大友宗麟]]></category>
		<category><![CDATA[守護大名]]></category>

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		<description><![CDATA[キリシタン大名として有名な大友宗麟（大友義鎮　おおともよししげ）は、鎌倉時代から続く名門大友氏の21代目の当主です。
大友宗麟が生まれた時代
大友氏は鎌倉時代には九州御家人の中の有力者として、室町時代には守護大名として権 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>キリシタン大名として有名な大友宗麟（大友義鎮　おおともよししげ）は、鎌倉時代から続く名門大友氏の21代目の当主です。</p>
<p><H3>大友宗麟が生まれた時代</H3></p>
<p>大友氏は鎌倉時代には九州御家人の中の有力者として、室町時代には守護大名として権勢をふるいました。<br />
<P><br />
守護大名としての大友氏は、少弐氏、島津氏とともに九州を３分する大勢力でしたが、山口の大内氏が北九州に進出するのに対抗していました。<br />
<P><br />
大友宗麟の生母は大内義興の娘と言われていますが、異説もあるようです。</p>
<p><H3>二階崩れの変</H3></p>
<p>父の大友義鑑は異母弟の塩市丸を寵愛し、大友宗麟を嫌い廃嫡を画策します。<br />
<P><br />
天文19年2月に父の大友義鑑は大友宗麟を湯治に行かせている間に宗麟一派を粛清しようとしますが、逆に宗麟派の重臣たちは決起し、2月10日に塩市丸とその生母を殺害し、その時の傷がもとで大友義鑑も12日は死去します（二階崩れの変）。これで大友宗麟は実権を握って当主となり、反対派を粛清しました。<br />
<P><br />
天文20年に大内義隆が陶晴賢の謀反で自害すると、大友宗麟は陶晴賢を助け、弟の大友晴英を大内家の新しい当主にします。これが大内義長ですが、これにより大友家は長年の念願であった貿易港博多を手中に収めます。<br />
<P><br />
この頃が大友宗麟の全盛期で、天文23年には肥後の名門　菊池氏を滅亡に追い込みます。</p>
<p><H3>毛利氏の台頭</H3></p>
<p>しかし、毛利元就が勢力を増して、大内義長が滅ぶと、毛利氏は北九州に進出してきます。<br />
大友宗麟は毛利派の秋月氏、筑紫氏を討ち、室町幕府に運動して、豊前・筑前の守護職と九州探題の地位を得るなど、軍事・外交の両面で手腕を発揮しました。<br />
この頃、毛利氏は山陰の尼子氏と対立しており、大友氏の領国は最大になります。<br />
<P><br />
ところが、毛利氏が尼子氏を打ち破った後は、毛利氏が再び北部九州の豪族に接近をはかります。<br />
この時は重臣の高橋鑑種が反旗を翻すなど、大友氏は当初劣勢でしたが、立花道雪などの活躍により、高橋鑑種の叛乱は鎮圧されました。<br />
<P><br />
大友宗麟は永禄5年にすでに出家していたのですが、この時期、毛利氏に対抗するためにキリシタン宣教師に接近し、火薬の原料である硝石の輸入などをしております。</p>
<p><H3>今山合戦</H3></p>
<p>大友宗麟は少弐氏を滅ぼして勢いに乗る龍造寺隆信を討とうとしますが、連携している毛利氏にけん制されます。<br />
それでも大友宗麟は大軍を弟の大友親貞に預けて龍造寺の居城　水ケ江城を包囲しますが、龍造寺軍の夜討ちに会い大敗し、大友親貞は討ち死にしてしまいます。<br />
この敗戦以降、大友軍は北の毛利氏、西の龍造寺氏、南の島津氏と３方面作戦を強いられることになり、徐々に力を落としていきます。<br />
<P><br />
天正5年には家臣たちの不満を和らげる狙いもあって、大友宗麟は家督を長男の大友義統に譲り、丹生島城へ隠居します。しかし、大友宗麟が完全に治世をコントロールしていたようです。</p>
<p><H3>耳川の戦い</H3></p>
<p>この機を狙って島津義久が日向へ侵攻しました。<br />
そこで、大友宗麟は大軍を率いて日向に向かいますが、耳川で大敗し、重臣の多くを失います。<br />
<P><br />
耳川での敗戦の原因に、直前に大友宗麟がキリシタンの洗礼を受けたことに対する家臣の反発をあげる人もいます。しかし、大友軍は山城攻略を得意としていましたが、今山合戦にしても耳川の戦いにしても、平地での大軍同士の合戦は元来、苦手のようです。<br />
<P><br />
これは、いつも３方面作戦を強いられているので、大軍での行動に慣れていないこと、大友宗麟自身がそれなりの軍略家なので、優秀な軍師をつけていなかった、鉄砲や大砲などに力を注いでいるものの、この時期は、それを完全に使いこなすには至っていなかったことがあげられます。<br />
<P><br />
大友宗麟は日向の国で神社仏閣を破壊し、キリシタンの王国にするというようなことを宣教師に言っておりますが、神社仏閣の破壊は新しい領地での大友家の支配力強化のためであり、家臣団に特にキリシタン改宗を命じていないことからも、ほんとうの信心というよりは、ヨーロッパ勢力へ接近して、貿易と軍事の両面で利益を得ることが、大友宗麟の本来の目的と思われます。<br />
<P><br />
耳川の戦い以降、筑後の諸将は龍造寺隆信に従うようになりますが、天正12年には沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち取られてしまいます。<br />
この機に、大友軍は筑後に侵攻しますが、その無理がたたってか、大友宗麟を支えた立花道雪が病死してしまいます。</p>
<p><H3>島津の北上と豊臣秀吉の九州征伐</H3></p>
<p>その後、島津軍は北上を続けて大友領を蹂躙していきます。<br />
大友宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請し、天正14年には、その要請にこたえて長宗我部元親らが九州に上陸しますが、戸次川の戦いで島津軍に破れ、豊後国府を占領されてしまいます。<br />
そこで、大友宗麟は国崩しと言われる大砲とともに丹生島城に籠城します。<br />
<P><br />
翌年、豊臣秀吉は20万以上の大軍で九州に侵攻し、各地で島津軍を打ち破ります。<br />
これにより大友家は滅亡を免れますが、大友宗麟は島津氏の降伏の直前に病死しました。<br />
<P><br />
大友宗麟の長男の大友義統は秀吉から豊後１国を安堵されますが、凡庸で、キリシタン禁令にもかかわらずキリシタンに改宗したり、朝鮮征伐でもミスを犯し、結局、改易となり、大名としての大友家は断絶しました。</p>
<p><H3>大友義鎮（宗麟）の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>享禄3年(1530)　大友家第20代当主　大友義鑑の嫡男として生まれる。<br />
<LI>天文19年(1550)　二階崩れの変。大友義鑑死去。大友義鎮、大友家第21代当主となる。<br />
<LI>天文20年(1551)　陶晴賢の乱で大内義隆　自害。<br />
<LI>天文22年(1553)　家臣の一萬田鑑相　謀反。<br />
<LI>天文23年(1554)　菊池氏を滅ぼす。<br />
<LI>弘治元年(1555)　陶晴賢　厳島の戦いで毛利元就に破れ自害。<br />
<LI>弘治2年(1556)   家臣の小原鑑元 謀反。<br />
<LI>弘治3年(1557)　毛利元就　大内義長を滅ぼす。大友宗麟、秋月氏、筑紫氏を攻略。<br />
<LI>永禄2年(1559)　大友宗麟　九州探題に補せられる。<br />
<LI>永禄5年(1562)  出家し休庵宗麟と号す。<br />
<LI>永禄10年(1567)　重臣の高橋鑑種　叛乱。<br />
<LI>元亀元年(1570)　今山の戦いで大友軍、龍造寺隆信に大敗し、大友親貞　討ち死に。<br />
<LI>天正5年(1577)　家督を大友義統に譲り、丹生島城へ隠居。<br />
<LI>天正6年(1578)　耳川の戦いで島津軍に大敗。<br />
<LI>天正14年(1586)　戸次川の戦いで島津軍に敗退、島津軍　豊後国府を占領。<br />
<LI>天正15年(1587)　豊臣秀吉の九州征伐。大友宗麟　病死。<br />
<LI><br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
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<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
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<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank">人物文庫 立花道雪</A><br />
「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。 </p>
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