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	<title>インターネット歴史事典 &#187; 九州の戦国大名</title>
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	<description>日本や世界の歴史上の人物や出来事をご紹介しております。</description>
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		<title>大村純忠</title>
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		<pubDate>Mon, 28 Sep 2009 08:50:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[大村純忠]]></category>

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		<description><![CDATA[大村氏は藤原純友を先祖とする在地領主ですが、家臣団や親戚筋の力が強く、強力な戦国大名になれないままでした。

そこで、大村純前は実子の又八郎（後の後藤貴明）を武雄の後藤家に養子に出し、隣国の大名の有馬晴純の子を養子として [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>大村氏は藤原純友を先祖とする在地領主ですが、家臣団や親戚筋の力が強く、強力な戦国大名になれないままでした。<br />
<P><br />
そこで、大村純前は実子の又八郎（後の後藤貴明）を武雄の後藤家に養子に出し、隣国の大名の有馬晴純の子を養子として貰い受けて、大村・有馬・後藤の３家連合を模索します。<br />
<P><br />
この有馬晴純の息子こそ、キリシタン大名として名高い大村純忠です。<br />
<P><br />
大村純忠はキリシタンの洗礼を受けると、ポルトガル人たちに当時、寒村だった長崎の港を開港し、のちに周辺の土地をイエズス会に寄進しています。<br />
<P><br />
これによって大村純忠は有馬氏とポルトガル人たちの支援を得て、松浦・後藤連合軍や龍造寺軍に対抗しました。<br />
<P><br />
一時、攻勢を強める龍造寺隆信に４人の息子を人質に取られた時もあったが、沖田畷の戦い後は有馬晴信のあっせんで島津に属し、豊臣秀吉の九州征伐時にはいち早く降伏し、本領を安堵されています。<br />
<P><br />
養父の大村純前は婚姻関係を構築して大村氏の存続をはかりましたが、大村純忠はポルトガル人の力を借りて難局を乗り切りました。<br />
<P><br />
大村純忠の死後、バテレン追放令が出されると息子の大村喜前は日蓮宗に改宗し、キリシタンを弾圧しました。<br />
それによって、大村氏は肥前大村藩として幕末まで存続します。<br />
<P><br />
九州で本領を安堵されて幕末まで存続したのは、島津氏、肥前の鍋島氏（龍造寺氏）、人吉の相良氏と大村氏のみであり、あまり知られてはいませんが、大村家代々の時代を読む処世術のすごさがわかると思います。</p>
<p><H3>大村純忠の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>天文2年(1533)　有馬晴純の子供として生まれる<br />
<LI>天文19年(1550)　大村純前の養子となる<br />
<LI>永禄6年(1563)　キリシタンの洗礼を受ける<br />
<LI>永禄13年(1570)　長崎港をポルトガル人に開港<br />
<LI>元亀3年(1572)　松浦・後藤連合軍を撃退<br />
<LI>天正6年(1578)　長崎で龍造寺軍を撃退<br />
<LI>天正8年(1580)　長崎港周辺をイエズス会に寄進<br />
<LI>天正12年(1584)　沖田畷の戦いでは龍造寺軍に属するが、龍造寺敗戦後は島津に属する<br />
<LI>天正13年(1585)　豊臣秀吉の九州征伐時に降伏し、本領安堵<br />
<LI>天正15年(1587)　病死。享年55<br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank">人物文庫 立花道雪</A><br />
「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。
</td>
</tr>
</table>
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		<item>
		<title>相良頼房</title>
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		<pubDate>Fri, 25 Sep 2009 09:31:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[相良頼房]]></category>

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		<description><![CDATA[相良氏は源頼朝から人吉荘の地頭職を賜った、いわゆる下り衆で、戦国期には在地の小領主達の連合体の盟主という立場でした。

有名な相良家法度は、相良氏ではなくて在地領主たちによって起草されたものですが、このことによって相良氏 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>相良氏は源頼朝から人吉荘の地頭職を賜った、いわゆる下り衆で、戦国期には在地の小領主達の連合体の盟主という立場でした。<br />
<P><br />
有名な相良家法度は、相良氏ではなくて在地領主たちによって起草されたものですが、このことによって相良氏は実質的には戦国大名化し、頼房の父の相良義陽の代には、大隅、芦北、八代、天草にまで勢力圏を広げました。<br />
<P><br />
しかし、島津氏の攻勢の前に屈服し、相良氏は島津氏に従属することになります。<br />
<P><br />
その後、父が討ち死にすると相良頼房は島津に人質に出されますが、兄の死により、12歳で相良氏の家督を相続し、人吉城主となります。<br />
<P><br />
相良頼房は島津軍の中の1隊として大友領を攻撃していましたが、豊臣秀吉の九州征伐時にいち早く降服し、人吉を安堵されます。<br />
<P><br />
関ヶ原の戦いのときには相良頼房は当初、西軍に属して伏見城などを攻撃していましたが、関ヶ原での西軍敗戦直後に秋月種長らと大垣城内で寝返り、石田三成の妹婿の熊谷直盛らを殺害したため、徳川家康によって本領人吉を安堵され、初代人吉藩主となります。<br />
<P><br />
相良頼房は大坂夏の陣ののち、相良氏初代の長毎の名をとって、相良長毎（ながつね）と名乗るようになります。<br />
<P><br />
九州の戦国大名の中で江戸時代にも本領を安堵されて生き残ったのは相良氏と島津氏、鍋島氏（龍造寺氏）、大村氏のみです。<br />
<P><br />
これには、相良頼房やその家臣たちの政治情勢認識の正しさと、戦国時代を生き抜く行動力の賜物でもあるのですが、何といっても、難攻不落の人吉城と相良家法度に結集した在地領主たちの結束が怖れられたからに他なりません。<br />
<P><br />
島津も豊臣も徳川も、大きな戦略の中で、人吉を無理攻めするよりも懐柔し従属させる道を選んだのでしょう。<br />
<P><br />
人吉こそ日本屈指の秘境であり、僻地であるのですが、表高23000石に対して実高53000石という実態こそ、相良氏の僻地ゆえの生き残り戦略をうかがわせるものではないでしょうか。</p>
<p><H3>相良頼房の年譜</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>天正2年(1574)　相良義陽の次男として生まれる<br />
<LI>天正9年(1581)　父・義陽が戦死。島津に人質として送られる<br />
<LI>天正13年(1585)　兄・忠房が急逝。12歳で家督相続<br />
<LI>天正15年(1586)　豊臣秀吉の九州征伐に際して降服。人吉領を安堵される。<br />
<LI>慶長5年(1600)　はじめ西軍に属し伏見城などを攻撃。関ヶ原の戦い直後に大垣城で内応。2万石の人吉藩初代藩主となる。<br />
<LI>寛永13年(1636)　死去。享年63<br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375248.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6120388%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13224098%2f" target="_blank">人物文庫 立花道雪</A><br />
「わが遺体は立花へ帰さず、高良山の麓に甲胄をつけて埋葬すべし…」<br />
死してもなお敵と戦わんとし、立花宗茂へ闘魂を遺して逝った雷神の不敗の生き様とは。<br />
大友宗麟、毛利元就、龍造寺隆信、島津軍団、高橋紹運…。<br />
多彩な登場人物により彩られる九州戦国図の中で光彩を放ち続ける信義の名将・立花道雪の激闘の生涯を描く。
</td>
</tr>
</table>
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		<title>秋月文種・秋月種実</title>
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		<pubDate>Sat, 22 Aug 2009 11:48:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[秋月城]]></category>
		<category><![CDATA[秋月文種]]></category>
		<category><![CDATA[秋月氏]]></category>
		<category><![CDATA[秋月種実]]></category>

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		<description><![CDATA[秋月文種は九州の名族秋月氏の生まれで、今でも桜の名所として有名な秋月城の城主でした。

秋月の地は大内氏と大友氏の2大勢力にはさまれており、秋月文種は大内氏に属しながらも大内氏と大友氏との和睦に力を注いでおりました。

 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>秋月文種は九州の名族秋月氏の生まれで、今でも桜の名所として有名な秋月城の城主でした。<br />
<br />
秋月の地は大内氏と大友氏の2大勢力にはさまれており、秋月文種は大内氏に属しながらも大内氏と大友氏との和睦に力を注いでおりました。<br />
<br />
陶晴賢の謀反により大内義隆が自害し、大内氏の勢力が北部九州から撤退すると、秋月文種は大友宗麟に鞍替えします。<br />
<br />
ところが、陶晴賢を討った毛利元就が北部九州に進出してくると、秋月文種はすぐに毛利氏に内応しました。<br />
結果的にこれが秋月氏の命取りになります。<br />
<br />
秋月文種の内応に激怒した大友宗麟は立花道雪らに２万の大軍を預けて秋月城を攻撃させます。<br />
<br />
秋月城では支えられないと考えた秋月文種は古処山城に逃れますが、結局、嫡男晴種とともに、城中で自刃しました。<br />
<br />
これで秋月氏は所領を失いますが、晴種以外の子供たちは古処山城から脱出します。<br />
<br />
その後、永禄2年に息子の秋月種実は旧臣の深美美濃守の助けで古処山城を奪還しました。<br />
そして、秋月種実は旧領をほとんど回復します。<br />
<br />
秋月種実は毛利氏の九州における尖兵として大友軍を悩ましますが、多々良浜の戦いで毛利軍が敗れると大友側に降伏しました。<br />
<br />
耳川の戦いで大友軍が敗北すると、秋月種実は龍造寺隆信や筑紫広門らと同盟を結びますが、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にした後は、島津氏に接近し、大友側の諸城を攻略し、36万石の大名にまで成長しました。<br />
<br />
しかし、秀吉の九州征伐時に島津側だったため、秀吉によって所領を没収されます。<br />
ですが、秋月種実は楢柴の茶入れを差し出したため許されて、日向高鍋３万石に移封され、秋月藩は明治まで日向高鍋で生き延びます。<br />
<br />
戦国時代の有力大名に翻弄され続け、致命的なミスを2回も犯した秋月氏でしたが、渡来人系大蔵氏の後裔という、九州きっての名門ゆえか、秋月文種、秋月種実父子の努力の甲斐あってか、九州内で明治まで存続できたのは特筆に値すると思いますね。</p>
<p><HR></p>
<p><H3>秋月文種の年賦</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>永正9年（1512）　秋月種時の嫡男として生まれる<br />
<LI>享禄4年（1531）　秋月文種　家督相続<br />
<LI>天文17年（1548）　秋月種実、秋月文種の次男として生まれる<br />
<LI>天文20年（1551）　陶晴賢の謀反により大内義隆が自害。秋月文種は大友宗麟配下となる<br />
<LI>弘治3年（1557）　秋月文種、毛利元就に呼応して大友宗麟に反旗を翻す。大友軍に攻められ秋月文種、古処山城で自刃。秋月種実は脱出<br />
<LI>永禄2年（1559）　秋月種実、毛利元就や旧臣深江美濃守の支援を得て旧領を奪還<br />
<LI>永禄10年（1567）　秋月種実、休松の戦いにて大友軍を撃破<br />
<LI>永禄12年（1569）　多々良浜の戦いで毛利軍敗退<br />
<LI>天正6年（1578）　耳川の戦いで大友軍敗走<br />
<LI>天正12年（1584）　龍造寺隆信が沖田畷の戦いで討ち死に<br />
<LI>天正13年（1586）　秋月種実、島津軍とともに岩屋城を攻撃<br />
<LI>天正14年（1587）　秋月種実、秀吉の九州征伐軍に敗北し降伏。日向高鍋3万石に移封<br />
<LI>慶長元年（1596）　秋月種実、日向高鍋で死去。享年49<br />
<LI><br />
</UL></p>
<p><HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6141321%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13243081%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f8741%2f87415739.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f8741%2f87415739.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0192036b.09f27cc3.08b76a03.24901a3e/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f6141321%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f13243081%2f" target="_blank">筑前戦国史増補改訂版</A><br />
大友、毛利の攻防<br />
毛利の筑前撤退と大友の博多支配<br />
大友、龍造寺の戦い<br />
筑前の展望<br />
大友の衰退、筑前各地の戦い<br />
立花宗茂の登場と養父道雪の死<br />
島津の北進<br />
岩屋城の戦い<br />
九州の夜明け<br />
筑前諸家の離散 </p>
</td>
</tr>
</table>
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		<title>筑紫広門</title>
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		<pubDate>Sat, 22 Aug 2009 00:02:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[筑紫広門]]></category>

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		<description><![CDATA[筑紫氏は小弐氏配下の小大名で、筑後上妻郡や肥前基肄郡、養父郡の一部を領するだけでした。

小弐氏没落後は、大内、大友、島津、後には龍造寺の大大名のちょうど勢力が拮抗する地域であることをたくみに利用して、筑紫広門は戦国の世 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>筑紫氏は小弐氏配下の小大名で、筑後上妻郡や肥前基肄郡、養父郡の一部を領するだけでした。<br />
<P><br />
小弐氏没落後は、大内、大友、島津、後には龍造寺の大大名のちょうど勢力が拮抗する地域であることをたくみに利用して、筑紫広門は戦国の世を綱渡りのように渡り歩きます。<br />
<P><br />
筑紫惟門の晩年には筑紫氏は大友氏に属しており、筑紫広門も家督相続直後は大友氏の配下となります。<br />
<P><br />
耳川の戦いで大友氏が敗北すると、秋月種実とともに高橋紹運の岩屋城を攻撃します。<br />
岩屋城はついに落ちなかったのですが、7年後に筑紫広門は高橋紹運が遠征している隙に居城の宝満城を落とします。<br />
<P><br />
ところが、豊臣秀吉が中央で力を持ったことを知った筑紫広門は、翌年、秋月種実と離反して、高橋紹運と和解し、娘と高橋紹運の息子との婚姻を成立されます。これは、いずれ秀吉の大軍が九州に来ることを察知した筑紫広門が、島津・龍造寺・秋月連合軍でも秀吉には勝てないと踏んで、当時、秀吉と結んでいた大友氏側に鞍替えしたものです。<br />
<P><br />
当時の九州の軍事情勢は圧倒的に島津側有利で、大友氏は滅亡の危機に瀕するような状態であったのにもかかわらず、豊臣・大友連合軍側を選んだ筑紫広門の先見の明には、感服します。<br />
<P><br />
しかし、島津・龍造寺・秋月連合軍の攻撃にあって息子が討ち死にすると、筑紫広門は降伏し、筑後の大善寺に幽閉されます。<br />
<P><br />
このときに筑紫広門が詠んだのが下記の和歌です。</p>
<pre>
忍ぶれば
　　　いつか世に出ん
　　　　　　折やある
　　　　　　　　奥まで照らせ
　　　　　　　　　　　山のはの月
</pre>
<p><P><br />
その後、秀吉の大軍が九州に上陸すると筑紫広門は大善寺から逃げ出し、軍を立て直して五ケ山城を奪回します。<br />
<P><br />
これにより、筑紫広門は筑後上妻郡18000石を安堵されました。<br />
<P><br />
ところが、歴戦の筑紫広門も関が原の戦いで西軍についたために、筑紫家は改易となり、広門自身は剃髪して、加藤清正や細川家を頼りましたが、大名として復活することはできませんでした。<br />
<P><br />
なお、息子の代に筑紫家は3000石の旗本として復活しています。</p>
<p><H3>筑紫広門の年賦</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>弘治2年(1556)  筑紫惟門の子として生まれる<br />
<LI>天正6年(1578)  耳川の戦い<br />
<LI>天正7年(1579)　高橋紹運の岩屋城を攻撃<br />
<LI>天正12年(1584)　高橋紹運の岩屋城を攻撃<br />
<LI>天正13年(1585)　高橋紹運の宝満城を落とす<br />
<LI>天正14年(1586)　娘を高橋紹運の次男・高橋統増に嫁がせる。嫡男　筑紫晴門討ち死に。筑紫広門　降伏し大善寺に幽閉される<br />
<LI>天正15年(1587)　秀吉の20万の大軍、九州上陸。筑紫広門、五ケ山城奪還<br />
<LI>慶長5年(1600)　関が原の戦い。筑紫広門改易。<br />
<LI>元和9年(1623)　筑紫広門逝去。享年68<br />
</UL><br />
<HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0aa4569b.1949d312.0aa4569c.a9524c10/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fshockprice%2f179832d%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fshockprice%2fi%2f10003273%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fshockprice%2fcabinet%2fdvd000%2fimg55822110.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fshockprice%2fcabinet%2fdvd000%2fimg55822110.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/0aa4569b.1949d312.0aa4569c.a9524c10/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fshockprice%2f179832d%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fshockprice%2fi%2f10003273%2f" target="_blank">いま蘇る戦国絵巻　ＤＶＤ全20巻セット</A><br />
下克上の名のもとに、数々の英雄。たちが群雄割拠した動乱の時代。貴重な資料とビジュアルで蘇るＤＶＤ戦国歴史絵巻。<br />
DISC-1:信長　天下布武への道(48分)<br />
DISC-2:秀吉Ｉ　出世街道(45分)<br />
DISC-3:秀吉ＩＩ　天下取り(38分)<br />
DISC-4:秀吉ＩＩＩ　天下人の居城(38分)<br />
DISC-5:秀吉ＩＶ　豊臣大名の城 1(38分)<br />
DISC-6:秀吉Ｖ　豊臣大名の城 2(38分)<br />
DISC-7:家康Ｉ　天下統一への布石(43分)<br />
DISC-8:家康ＩＩ　大坂城包囲網(36分)<br />
DISC-9:家康ＩＩＩ　名築城家の城(37分)<br />
DISC-10:家康ＩＶ　天下平定(34分)<br />
DISC-11:みちのくの城と合戦(48分)<br />
DISC-12:関東の城と合戦(46分)<br />
DISC-13:謙信と信玄の城と合戦(46分)<br />
DISC-14:京をめぐる諸城郭(40分)<br />
DISC-15:中国の群雄の城(46分)<br />
DISC-16:四国・九州の巨大城郭(44分)<br />
DISC-17:琉球王国の城(36分)<br />
DISC-18:城郭の歴史(41分)<br />
DISC-19:城郭の構造(40分)<br />
DISC-20:城と生活・合戦(40分)</p>
</td>
</tr>
</table>
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		<title>有馬晴信</title>
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		<pubDate>Thu, 20 Aug 2009 22:35:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[有馬晴信]]></category>

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		<description><![CDATA[戦国時代に島原半島全域を勢力範囲にしていた有馬氏ですが、キリシタン大名として有名な有馬晴信が家督を継いだ頃には、東の龍造寺隆信に服属するようになっていました。

そこで、有馬晴信は、叔父の大村純忠とともに、有馬・大村連合 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>戦国時代に島原半島全域を勢力範囲にしていた有馬氏ですが、キリシタン大名として有名な有馬晴信が家督を継いだ頃には、東の龍造寺隆信に服属するようになっていました。<br />
<P><br />
そこで、有馬晴信は、叔父の大村純忠とともに、有馬・大村連合を作り上げます。<br />
<P><br />
しかし、龍造寺隆信の勢力はさらに増大して、大村純忠は龍造寺隆信側につき、有馬晴信も息子３人を人質にとられます。<br />
<P><br />
このような状況下で、有馬晴信は龍造寺隆信から離反し、島津氏の支援を受けるという大きな決断をしました。<br />
<P><br />
その結果、起きたのが沖田畷の戦いです。この戦いでは、有馬晴信の巧みな戦術で龍造寺隆信を討ち死にさせ、有馬氏は独立した戦国大名に復活しました。<br />
<P><br />
その後、有馬晴信は領内の神社仏閣を破壊し、キリシタンを保護します。<br />
<P><br />
豊臣秀吉の九州征伐の時には、島津から豊臣方に寝返ります。また、関が原の戦いでは、西軍に属しながら、東軍とも連絡を取り合い、小西行長の居城の宇土城を攻撃したことから、領国を安堵されています。<br />
<P><br />
しかし、キリシタン追放令が出てからもキリシタンを保護したため、徳川家康からは警戒されていました。有馬晴信は岡本大八事件に連座して、甲斐に流され、切腹を命ぜられます。しかし、キリシタンの彼は自殺を拒み、斬首を願い、刑に服しました。<br />
<P><br />
その後、有馬晴信の子、直純は日向延岡に移封されます。</p>
<p><H3>有馬晴信の年賦</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>永禄10年（1567） 有馬義貞の子として生まれる<br />
<LI>元亀2年(1571)　家督相続<br />
<LI>天正12年(1584)　沖田畷の合戦で龍造寺隆信　討ち死に<br />
<LI>天正15年(1587)　豊臣秀吉の九州征伐<br />
<LI>慶長5年(1600)　関が原の戦いで、当初西軍、のちに小西行長の居城宇土城を攻撃<br />
<LI>慶長14年(1609)　マーデレ・デ・デウス号事件（ポルトガル船爆破）、有馬晴信、岡本大八に騙され賄賂を贈る（岡本大八事件）、甲斐国初鹿野に追放<br />
<LI>慶長17年(1612)　斬首（切腹説もある）<br />
</UL><br />
<HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/02215160.29bc53c2.0448825f.42d89431/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f1445385%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f11062798%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f8355%2f83553686.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f8355%2f83553686.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a></p>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/02215160.29bc53c2.0448825f.42d89431/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f1445385%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f11062798%2f" target="_blank">有馬晴信　抄録</A><br />
第１章　謎を秘めた古代人のふる里<br />
第２章　有馬家十四代の治世四〇〇年の歩み<br />
第３章　十三代・有馬晴信、栄光と哀愁のクルスの丘<br />
第４章　島原の乱と乱後の有馬<br />
第５章　北有馬町の宝物一覧（史跡・遺跡・文化財） </p>
</td>
</tr>
</table>
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		<title>鍋島直茂</title>
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		<pubDate>Wed, 19 Aug 2009 22:37:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[九州の戦国大名]]></category>
		<category><![CDATA[　鍋島直茂]]></category>
		<category><![CDATA[龍造寺]]></category>

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		<description><![CDATA[鍋島直茂は龍造寺隆信の家老として、龍造寺家を北部九州を制覇する大大名になるのに大いに貢献しました。

しかし、沖田畷の合戦で龍造寺隆信が討ち死にした後は、島津の北上によって衰退する龍造寺政家は島津の配下になってしまいます [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>鍋島直茂は龍造寺隆信の家老として、龍造寺家を北部九州を制覇する大大名になるのに大いに貢献しました。<br />
<P><br />
しかし、沖田畷の合戦で龍造寺隆信が討ち死にした後は、島津の北上によって衰退する龍造寺政家は島津の配下になってしまいます。<br />
<P><br />
しかし、鍋島直茂はいち早く豊臣秀吉に接近し、龍造寺政家を説得して、島津家から離反させ、秀吉の九州征伐後、龍造寺氏はほぼ本領を安堵されました。<br />
<P><br />
関が原の戦いの時も、息子の鍋島勝茂は当初西軍として、伏見城や松阪城攻撃に参加していましたが、その裏で鍋島直茂は徳川家康に接近し、関が原の戦いの直後に、西軍側の柳川城の立花宗茂を攻撃しています。<br />
<P><br />
このような鍋島直茂のたくみな外交によって、関が原の戦い後も本領安堵されます。<br />
<P><br />
龍造寺家の断絶の後、鍋島直茂の嫡子勝茂に肥前１国の安堵状が出され、鍋島家佐賀藩として、鍋島家は幕末まで存続します。<br />
<P><br />
なお、歴代の佐賀藩主は長崎奉行んあることが多く、佐賀藩は西洋の技術をいち早く取り入れて栄えます。<br />
<P><br />
幕末には、その技術力や軍事力から薩長土肥の一翼を担い、明治維新に大いに貢献し、大隈重信など多数の人材を輩出しました。</p>
<p><H3>鍋島直茂の年賦</H3></p>
<p><UL><br />
<LI>天文7年（1528） 本庄の鍋島館で鍋島清房の子として生まれる<br />
<LI>天文13年(1544)　1月23日、24日　馬場頼周ら龍造寺家のおもだった一門６名を暗殺<br />
<LI>天文15年(1546)　大内氏らの支援により龍造寺家兼らは馬場頼周らを討伐し、居城の水ケ城を回復<br />
<LI>天文20年(1551)　大内義隆が家臣の陶隆房の反逆で自刃、龍造寺隆信ら再び蒲池鑑盛のもとに逃亡<br />
<LI>天文22年(1553)　龍造寺隆信ら農民たちの支援を得て水ケ城を奪還<br />
<LI>永禄元年(1558)　小弐冬尚を自刃させる<br />
<LI>元亀元年(1570)　8月20日　今山合戦で鍋島直茂の進言した朝駆けにより大友の大軍を撃破<br />
<LI>天正9年(1581)　龍造寺隆信　柳川城を攻略<br />
<LI>天正12年(1584)　沖田畷の合戦で龍造寺隆信　討ち死に<br />
<LI>天正15年3月 秀吉は25万の軍勢で九州征伐<br />
<LI>天正18年(1590)　鍋島直茂　龍造寺高房の後見人、佐賀城主<br />
<LI>慶長5年(1600)　関が原の戦い　当初西軍、後に東軍として柳川城を攻撃<br />
<LI>慶長18年(1613)　鍋島直茂の嫡子勝茂に肥前１国の安堵状が出る<br />
<LI>元和４年(1618)　6月3日　鍋島直茂８１歳で大往生<br />
<LI><br />
</UL><br />
<HR></p>
<table>
<tr>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/02215160.29bc53c2.0448825f.42d89431/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f1745048%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f11327513%2f" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375192.jpg%3f_ex%3d128x128&#038;m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fbook%2fcabinet%2f3137%2f31375192.jpg%3f_ex%3d80x80" border="0"></a>
</td>
<td>
<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/02215160.29bc53c2.0448825f.42d89431/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fbook%2f1745048%2f&#038;m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fbook%2fi%2f11327513%2f" target="_blank">童門冬二　鍋島直茂</A><br />
「自分の嫌いな人間と付き合え。<br />
そうすれば必ず徳がある」「ただいまのことに細かい気遣いをしていれば、先の予想が立つ」<br />
幕末まで長く受け継がれてきた佐賀藩の“葉隠精神”。<br />
秀吉、家康に深く信頼された名将の生涯を追いながら、“葉隠精神”のルーツを探る意欲的な歴史長編小説。<br />
佐賀藩祖が説く“組織の中で生き残るためのヒント”とは。 </p>
</td>
</tr>
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